七竈の食器棚

徒然なるものを竃につめこんで。

『人と喋らない仕事』と聞いて応募したが、がっつり喋る仕事だった医療従事者の話

「事務員ならあんまり人と喋らないと思いますよ」

 

 そう言ったのは大学の就職センターの職員さんだった。大学4年、7月。当時の私は、ようやく自分のなりたい職業に対し諦めがつき、遅すぎる就職活動を本格的に始めたばかりだった。目の前には、地元の企業の採用情報が並んでいた。

 

「事務員なら、こことかどうですか?あなたの学部のコース的にはこれとか」

 

 その時バイトをしていたのが塾の受付事務と言ったら、その職員さんが勧めてくれたのがとある病院の事務員の募集要項だった。事務員は2種類あり、職員さんが勧めてくれたのはクラーク業務を行う事務員だった。

 

「若干名となってますけど、お試し的な感じでまず受けてみましょう!」

「あなたの地元では有名なところなんですよね?まずは受けてなんぼですよ!!」

 

 その時、私は自己肯定感がぼっきぼきに折れていたのと、とにかく早く何とかして就職先を見つけねばという思いでいっぱいだった。そして提示された時点で締め切りまで7日というその募集要項をもとに履歴書を書き、写真を貼り、速達でその病院に履歴書を送り面接を受けた。

 

 

 

 

 

まさかの一発採用だった。若干名と聞いたがなんで自分が受かったんだ!?と本気で思った。

 

 

 

 

 

 大学に報告に行ったら、「絶対に内定を蹴らないでほしい」と言われた。

 

その時点で8月だったのもあり、私はまあいいか、とそこに就職先を決めた。

 

 ゼミの教授や、学部の先生方には驚かれた。どうやら全国的に有名な病院らしいとようやくその反応で知った。学部長に『実習直後に就活に切り替えて即内定を取ってきたことを後輩たちに体験談として話してくれ』と頼まれたが丁重にお断りした。そこまで有名なところと知らずに受けましたなんて言えるわけなかった。

 

 

 

 

 

 

 

……就職した今なら、あの大学関係者の反応もわかる。一部の業界で、ここに採用歴があるというのはネームバリューが大きいのだろう。同期たちにこの話をしたら『ほんとに何も知らずにきたのか』と愕然とされた。

 

 

 

 

 

 

 

 さて私は、何も下地がないまま医療業界に飛び込むことになった。蓋を開けてみたら同期の中で医療事務の資格も持っていないのは私だけだった。正直、どうして採用されたのか今でも分からない。

 

 戸惑いしかないまま入社式と2週間ほどの研修を終え、私と同期たちは配属先に案内されることになった。

 

 私の配属先は、同期たちと話してた中で一番私が行くことはないだろうと言っていた科の外来だった。 病院の玄関口みたいな科で、なんでも受ける(というか回されてくる)ところだった。それ故にかなり忙しくて色々な医者や部門の人が出入りしていると、研修の中で説明を受けた。ここで診察を受けて慌てて専門科に振られて緊急入院即手術!となる人もいるくらい、とにかく色々なことがある外来だと。

 

『え!?七竈がここ!?』と同期たちが後ろで言っているのが聞こえた。

 

私が一番驚いていた。なんでや。私たぶんこの同期たちの中で一番医療系詳しくないぞ。

 

 

 

 

 

 さて、疑問だらけで事務員生活が始まった。仕事内容はと言うと『診察している医師の話を聞いて次回予約を取り、検査の予約を取り、どの薬が出ているか患者に説明する』という仕事だった。

 

 医師によってその仕事の内容は少しずつ違ってくる。検査予約も日程も全部取る医師の診察についていたら、説明するのは次回の検査内容と処方だけだ。

だが『だいたい次の診察はこの日くらいに、検査はこれをこの日までに受けてくださいね』というざっくりした説明をして次の患者さんを呼ぶ医師の場合は、事務員が検査の日、診察の日を全部患者さんと話してスケジュール調整することになる。場合によったら医師が出した薬の日数を調整することにもなる。

 

 そしてこの外来に多いのは圧倒的に後者の医師だ。そして予約患者の人数が多い医師ほど、こちらが患者さんと次の診察の調節をする。それは私の仕事が『医師の診察介助』だからである。医師はその日来た患者さんを出来るだけ多くそして早く、適切に診察しなければならない。私たち事務員はその補助作業が仕事だ。

 

 がっつりしゃべるやんけ!!!?と試用期間の間ずっと思っていた。いや人と喋らない仕事なんてないが、思った以上に喋る仕事だった。そして医療系資格あまり関係がない仕事だった。いや分かってた方がやりやすいこともあるのだろうが、私自身は資格を持ってないことで苦になることはなかった。

 

 

「私、事務員ならあんまり喋らないかもって言われてここの面接受けたんですよ」と言ったら先輩方に爆笑された。そして「たしかに思った以上に喋るし頭こんがらがるよな」と返される。そう、とにかく状況によっては頭がこんがらがる。順序よく分かりやすく説明するにも、どうしたらいいんだとなりがちである。

 

 

 求められることは判断力、決断力、そして説明力だった。患者さんの様子に合わせて分かりやすく説明することも求められるし、患者さんの体調とスケジュールに合わせて検査場所も考えねばならない。たまにパズルみたいに感じる。なんでうちの病院こんなに検査棟が分かれてるんだと思いながら。

 

 この仕事内容を聞いてればたぶん応募してなかったと思う。新人時代は一人の患者さんの説明をしていたら二、三人終わっていたなんてこともあった(今でも忙しい日だとたまにある)。

 

 

 できるだけ待ち時間を短くして、検査の予約を取って患者さんにご帰宅いただくことが理想の仕事だ。検査によって必要な問診票を患者に書いてもらって、医師のサインをもらう。そして必要書類だけをまとめて患者に渡しつつ説明をする。

 

 ……サインさえもらえればあとは帰すことができるのに、医師が診察中かつ長引いて30分かかることもある。そして患者さんによっては事務員を怒鳴る(流石に稀である)。いつまで待たせるんだと言う患者さんに、重症な方がいて長引いてます申し訳ありませんと頭を下げる。

 

 

  待ち時間に怒る患者の応対ほど苦痛なものはない。私だって待たせたくない。だが待ってもらわないといけない時は、待ってもらうしかないのだ。理由を説明してひたすら謝る。

 

 処置中にアレルギーを起こしたり、突然倒れた患者の処置応援にいったり。中には救急外来まで運ばねばならず、それに付き添わねばならないということもある。外来の医師は、予約そっちのけで対応しないといけないことも案外多い。それを理解してくれる人が大半だが、中には理解せずひたすら怒鳴る人もある。

 

「先生なんでこんなに遅れてるんですか!?実は遊んでるんじゃないですか!?この人を待たせていいと思ってるの!?」と言われた時は流石に「今の先生方に遊んでる暇なんてありません!容態が急変した方の処置中なんです!!」と言ってしまった。ただ若いだけの女に何がわかると火に油を注いでしまったが。

 

 

 

 いつか辞めるだろうな、と思っていた。特に院長と知り合いだから早く呼べいつまで待たせるんだという相手の対応には。文句があるならこの場で直接院長に電話して私の名前を言ってクビにすればいいのに、とすら思った。そう言ってやろうかと思うこともあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……そう思いつつ、気づけば4年目になっている。そして事務員としての私を鍛えた医師がもうすぐ退任する。私は気付けばその偉い医師の全ての外来日についたことがある、その外来で唯一の人間になっていた。4年目のギリ中堅なのに、異動や退職などでそうなっていた。嘘だろと愕然としたが、事実だった。そのおかげか大概の患者さんの名前と顔が一致している。

 

 その医師の退任が決まってから、私の仕事に退任関係の仕事が加わった。引継リスト作成と他院紹介先のリスト作成、そして退職後に予約が入っている患者への手紙代筆。宛名を書きながら、患者さんたちの残念そうだったり驚いた顔が浮かぶ。たった四年の間にすっかり患者さんたちを覚えていた。そしてその患者さんたちがその医師をとても信頼していることも分かっていた。

 

  手紙を読んでお電話をくださる患者さんも多い。そして最後に医師にお会いしたいから、なんとか予約を入れてほしいという要望も。予約人数と照らし合わせ、待ち時間が長いことも伝えた上で予約を入れる。医師の指示に、『どうしても最後に一回という方は予約を入れる』というのがあった。優しくて人気の医師だったからこそ、皆さん別れを惜しんでくださる。常に待ち時間が長い予約ではあったが、この一ヶ月はことさら長い。どの方も別れを惜しんで話が長くなる。泣き出す方もいた。待合で待ってくださる患者さんたちをに頭を下げると、みんな察してくださった。いつもは顔を見るなり順番を聞いてきたり診察券を突き出してくる人も、何も言わなかった。

 

『寂しいもの、長年診てくださってたのに』

 

  次の引き継ぎのことを伝えると、こんなことを言ってくださる方もいた。

 

『七竈さんの仕事ぶりも板についてきたのにね』

『すっかり馴染んできて仕事も早かったのに』

 

 この4年で、診察介助のスピードは早くなったとは思う。この医師はこの検査を出すことが多いから該当検査の最新の予約状況見ておこうとか、リストアップすることを覚えたのが大きかった。だいたい三ヶ月先までリストアップしておき、朝の診察前に空き状況をチェックする。2日連続で来てもらわないと困る検査ほど、リストアップしておくことが大事だった。2日連続で来れることができる日を確保というのは結構難しい。

 

 

  この日なら他の科を受けた後に検査を受けて帰ることができますよ。

この日でしたら検査場所が分かれてしまいますが、同日で受けることができます。

 絶食の検査ですがこの日の朝とかどうでしょう。

 申し訳ございません、次の診察日までに検査が空いてるのが3日しかありません。

 

 

 患者さんに提案しつつ、次の診察日までの予約を入れる。どうしても無理な場合は検査室に電話で相談する。

 大変だが、なんとか検査が患者の要望とこちらの診察日までに入れられた時はホッとしつつ嬉しい。

 

 新人時代は相当たどたどしかったと思う。どう説明したらいいか分からないから、とにかく教育係の先輩の説明している様子や、他の先輩方の説明を聞いて片っ端からメモをしていた。どの検査があるか、注意事項は何か。来てもらうのはこの時間だが、検査場所はここだとか。とにかく書いた。聞いた。それもあって喋れている。

 

 喋ることは、今でも苦手だ。予想外のことが続くとパニックになるし、説明を理解してもらえたか不安になる。だが、伝わってるととても嬉しい。その喜びがあるから、なんとか続けてこれたのかなと思う。

 

 

 引き継ぎの関係で、私は多くの患者に別れを言うことになった。七竈さんは次の担当じゃないの!?と半分くらいの人に驚かれる。退任する医師は長年働いていた方で、トータルすると1000人は超える患者をだいたい三ヶ月で診ていた。あまりに人数が多すぎる故、来てもらう日を分散させざるを得なくなったのだ。私が今後定期的に顔を合わせる患者さんは今までの30分の1くらいになる。

 

 私は辞めませんよ!と言いつつ何かあったらまたお声がけくださいね、と言いお別れする。この二ヶ月、その繰り返しである。自分でもこの返しがすっと出てくるのが不思議だった。先輩事務さんたちのやりとりを見ながら覚えたことの一つだった。

 

 だが、寂しいと言われるとちょっと嬉しいものがある。何かあったらまたよろしくねと言われることも、嬉しかった。四年前の今頃はまだ声をかけられるだけで緊張していたというのに。

 

『新人さんを指導してる七竈さんを見て、七竈さんもすっかりベテランさんやなあと思ってたんですよ』としみじみ言われた時は恥ずかしいやら嬉しいやらでなんだか泣きそうになった。そんなやりとりをした患者さんとも、お別れをすることになってしまった。

 

  これから、このコロナ禍でいろいろと変化することはさらに出てくるだろう。私の仕事も、喋ることが多い仕事だからもしかしたらなくなることがあるかもしれない。なくならないだろうと思いつつも、どうなるかは分からない。 それでも、この仕事について良かったと思っている自分がいる。とにかく早く定職を得たいと思って飛び込んだけど、結果的にはしんどいけどもとても楽しい。

 

 なんとか変化に振り落とされないよう、笑って喋って長く仕事ができたらな、と思う。

 

……でももうちょっと給料は上がって欲しいな?(通帳を照らし合わせながら)(節約しろ)

無敵ピンクと戦闘服

 無敵ピンクという言葉を最近よく目にするようになった。きっかけは『初めて恋をした日に読む話』というドラマらしい。横浜流星演じるイケメンキャラクターの髪の毛の色がピンクで、深田恭子演じる主人公の塾講師がその髪の毛の色を『無敵ピンク』と言ったから、だそう。教師と生徒などの恋愛ものが地雷の私はそのドラマを一切見ていないので、無敵ピンクの発祥をこの記事を書こうとするまで知らなかった。だが、無敵ピンクという言葉は妙に気に入っている。

 

 ピンク。昔から割と好きな色だ。クローゼットの中にはあまりかかっていないけど、可愛いと思う小物などはピンクの確率が多い。部屋を見渡せばピンクの小物がいくつか目に入る。化粧品だったりペンだったり、細々したものはついピンクを選んでしまうが、身につけるものではあまりピンクは選んでこなかった。化粧品はともかく、ピンクの服などを身につけるのは勇気がいる。……という話を職場でしたら、上司にツッコミを入れられた。

 

「いや、あのピンクの車選べるんなら服でピンク身につけるのは勇気いらんやろ!!?」

 

と。その瞬間同じく車通勤の先輩が飲んでいたコーヒーを吹いた。

 

 

 そう、今回私が書く無敵ピンクとは、職場で目立ちまくっている私のピンク色の愛車のことである。白と黒の車が多い職場の駐車場でそのピンクはそれはそれは目立っている。もう少し、無難な色にすればよかったかなと思うくらいには目立つ。人と被らない、間違えられることもそうそうない。まさに無敵ピンク…といえば聞こえはいいが田舎ではマジで目立つし誰の車か一目瞭然状態である。いやめっちゃ気に入ってるんだけど。

 

 

 

 上司にこのことをつっこまれた瞬間に頭をよぎったのは、B.I.Shadowに入りたてくらいの高地優吾がドクロの服着るのに勇気がいると言ったら山田涼介に「そんなまっピンクのパーカー着れるならいけるだろ!?」とつっこまれたという記事だった。あれもそういやピンクの話だったな。

 

 

 

 

 

 

 

  私の無敵ピンクこと、ダイハツキャンバスとの出会いは約一年前の春のこと。私はペーパードライバー歴5年の状態で、その無敵ピンクを手に入れてしまった。『自分の分の車がないから』『電車の方が何かと楽』などとのらりくらりと車通勤や運転の練習から逃げていた私と妹をなんとかすべく、娘用の車を買おうと両親が動いたのがきっかけだった。何度か姉妹用の車の購入の話は出て、こういう機能があるといいなどの話は出ていたがピンとくる車がなかった。そもそも私たち姉妹があまりに乗り気ではなかったので、購入の話は立ち消え状態だった。

 

 電車の本数が少ない、JRの最寄駅は徒歩5分の距離だが大雨などですぐ止まる、ということもありそのうち車通勤にしないといけないのはほぼ決まっていた。だが車を運転するのが怖くて、私はずっとペーパードライバーだった。免許を取得してすぐなどは練習もしていたのだが、練習をつけてくれていた父が異動になったり、私が実習や就活で忙しくなったり、就活後は休日出勤が入ったり…と、定期的な練習ができなくなっていた。そのため毎回毎回振り出しに戻っており、気づけば免許取得から数年が経っていた。

 

 2020年、コロナが流行し始め、医療系である私の職場の人手不足がかなり深刻になった。自分の所属だけでなく、他の課の誰が休んでもやばいという状況ができてしまった。

 感染対策もあるし、電車が止まって出勤できないという事態をできるだけ避けるために車を練習しないとまずいわ〜と両親に伝えた、ある3月の日曜日のこと。両親たちは善は急げと強行手段に出た。コロナ対応で疲れ切った体を休めるべく惰眠を貪っていた私を叩き起し、同じく叩き起こされた妹と共にその1時間後には中古車チェーン店にいた。金は出すから車を選べと言うことだった(こんな風に書くとうちが金持ちのように聞こえるが一般家庭である。ただ父の思い切りがいいだけだ)。やる気になった娘の火を消さないうちに、ということだったらしい。いや私は練習に付き合ってもらう機会増えるかもと言っただけだったんだけど。

 

『とりあえず乗りたい車を選べ』という両親に、私と妹は呆然としていた。目の前には色々な車がある。とりあえず、数日前に話が出た時のことを思い出しながらふらふらと姉妹でいろんな車を見て回った。ちなみに中古車チェーン店強制連行は2回目のことだった。1回目はその半年前の話である。その際は気に入った車種はあったものの、店舗にある色があまりにも買うには勇気がいる色で、かつ両親的に視界がアウトだった。『小回りが効くかもしれないが視界が狭い』と。あと煽り運転されそうな大きさとのことだった。かといってデカイのはいやだぞ!?と姉妹で言ったのを覚えている。

 

『軽がいいって言ってたよな』『安全機能と視界の広さは欲しいやんな』『どないしよか』『でもあの車の顔はいらんって言ってたもんな』『お姉ちゃんが可愛いって言ってたやつなかった?それ探したらええやん』『あれもう廃盤らしいねん、その代わりに出たんが機能はいいけど顔が姉妹そろって気に食わんあれ』『詰んでもうたな、廃盤なら修理することになったら困る』

 

そんな会話をしながら見ていたら、ふと妹が言った。

 

『うちキャンバスの顔好きやねんよな』

 

 と、いうことでダイハツキャンバスの売り場に直行。その時あったのはグレーと白のツートンとピンク一色に銀のラインの2色のみだった。キャンバスといえば白とブルーなどのツートンのイメージだったため非常にそのピンクのキャンバスに驚いた。

 

 

『こんなキャンバスあるんやね』『ほんまや、ツートンやない!』『ほぼ一色のキャンバス初めて見たなぁ』

 

 キャンバスは1回目の強制連行の際にも候補に上がった車だった。人気車種だったためか、その時も店舗に一台しかなかった。試乗させてもらった時の視界の広さと車内の広さに驚いたなと思いながら、ピンクのキャンバスを眺めた。ただでさえ可愛らしいキャンバスが、ピンク色なのもあって余計に可愛らしかった。

 

『あぁ、それほぼ新車なんですよ。まだ誰も乗ったことがないんです。いや、正式に言うと店員や客が試乗したくらいちゃいますかね』

 

 目を見張る私たち一家の横で店員さんがニコニコしながら教えてくれた。関東のどこかのダイハツの展示車だったため、新車ではないけどほぼ新車、新古車というやつらしい。なのでこの店舗の中で取り扱ってる車の中では少し高めだけど、新車と比べるとかなり安いという状況らしかった。

 

『……お姉ちゃんこれにしたら?』

『え!?なんで!?』

『一目惚れって顔してるから』

 

  すごい渋い顔しながら車見てたのにこの車見てめっちゃ目がキラキラしてんで、と妹は笑った。

 

『いやでも、あんたも乗るんやろ?それやったらグレーと白のツートンの方がええんとちゃう?』

『いやどうせ乗るのほぼ姉ちゃんやろ。うちほんまに車通勤になるかまだわからんし。お姉ちゃんの乗りたい車優先やろここは』

『いや、でも、可愛いけど、うん…』

 

 そんなことを言ってたらとりあえず中見たらええやろ、と父が言ってきたので試乗することにした。

 

……中身も非常に可愛かった。クリーム色とピンクの、パステル具合がたまらなく好みだった。うわあ無理、好きぃ…!と頭を抱えそうになるくらいには。中身をのぞいた父が『びっくりするくらい女子向け…』と驚く。その父の横で見た母はめちゃくちゃテンションが上がっていた。『いや、むっちゃ可愛い!めっちゃ可愛いやん!!』とひたすら可愛いを連呼していた。うちの母は超がつく親バカかつ可愛いものが好きである。娘が可愛い車に乗っているという状況が大変お気に召したらしかった。

 

 

 

 

 とにかく1番車購入に乗り気じゃなかった私が気に入ったということで、とんとん拍子で契約が進んだ。いやスピード感やばいなと思いつつ、こうでもしないと私が車に乗らないと思われていたんだなと実感した。すまんかった両親。店員さんも『正直初めての車というにはだいぶ贅沢仕様ですよw』と笑っていた。そんなこと、乗る予定の私が1番実感している!と店員を見ながら思っていた。

 

 そして納車されたキャンバスで後日車のお祓いに行くために一家揃って乗り込んだが、運転した父が非常に驚いていた。めちゃくちゃスムーズだと。見やすいと。『こりゃええ車やぞ!めっちゃいいぞ!!』と。可愛い内装を眺めつつ、私はまだその時は自分がこの車を運転することに恐怖感が拭えていなかった。

 

……のちに、この車が特別仕様車だったと知って姉妹で悲鳴をあげた。どうりで見たことないはずである。しかもピンクだもの。田舎町では特に、みんな目立つ色は選ばない。あったとしても白に近い、薄めのピンクである。

 

 

 

 

 

 

……そして練習すること一年、何をするにしても鈍臭く習得が遅い私はなんとか職場と家の行き来はできるようになり、この春から車出勤に切り替えた。

 

 この無敵ピンクなキャンバス、やはりめちゃくちゃ目立つ。そして可愛い。なんせ職員用駐車場で止めることになったところが、駐車場入り口のすぐそばだった。駐車場に行こうとするとすぐに目が入る仕様である。

 新年度に入ってすぐ、修羅場と残業で疲れて帰ろうとした時に、月に照らされて私の無敵ピンクはキラキラと光っていた。まるでスポットライトを当てられたみたいに。周りの車はほぼ停まっていない状態で、無敵ピンクはたった一台停まっていた。

 

 

……か、可愛い!綺麗!!膝から崩れ落ちそうになりながら笑いを堪える私は、さぞ気持ち悪い顔をしていたと思う。だが、可愛い車は確実に私のテンションを上げてくれた。やだ、私の無敵ピンク最強じゃん?可愛いじゃん。最高じゃん…。父上まじありがとう…。

 

 正直、まだ運転はど下手くそである。駐車もめちゃくちゃ苦手で、職場はすぐ停められるようになったもののコンビニなどに駐車するのは四苦八苦している。だが、運転しての通勤がさほど苦ではなくなってきているのは事実である。父が『どうせ乗るなら乗りたい車や』と言ったのはかなり大きかった、と心から思う。すり減った心に目に見える可愛いは大きい。少なくとも今の私にはこの可愛い車は大きな活力になっている。

 

 さてそんな無敵ピンクのおかげで出勤時間に少々余裕ができた私は、前よりも朝の準備に時間をかけることができるようになった。何より、今までならとりあえず起きてすぐにクローゼットの前で適当に服を取って着て…としてたのだが、その日の仕事内容と仕事後のテンションを考えて服を選ぶようになった。前日にコーディネートを考えることが今さらになって身についたのも大きいが。

 

 今までも、修羅場が確定している日はお気に入りの組み合わせの服や、可愛いワンピースで出勤していた。特に昨年は多かった。そうでもしないと、自分の心が折れそうだった。突然同期が当日退職してしまったり、仕事上のパートナーが突然来なくなり代理パートナーとの仕事が1ヶ月続いたり。コロナ禍で仕事が忙しくなったのもあるが、とにかく個人的には苦行が多かった。

 

 すり減った心で帰る時、せめてロッカーの中には可愛い服が待っていると思うとまだなんとか働けた。

 

 私にとって、可愛いと綺麗は武装。可愛い服は戦闘服だ。これをこなしたらあの可愛い服を着て帰れる!という自分を鼓舞するアイテムだ。

 

 そして今は、無敵ピンクが私のそばにいる。この無敵ピンクに似合う服で出かけたいと思うようになった。行くのは職場だけど。というかぶっちゃけまだ職場とその周りのコンビニと銀行しか行けてないけど。なんなら1日のうち私服姿は2時間くらいだけど。

 でも行き先はどこであれ、可愛い服で出かけたい!と思うようになり妙に自分でもこだわりだした。この組み合わせはどうだろう、これはどうだろうと、今まではあんまりしなかったコーディネートを考えるようになった。……これには、Snow Manが掲載されたことでファッション誌を買って読むことが増えたからも大きいとは思う。これなら似たアイテム持ってる。これもこれとならできるな、というのが分かるようになった。ただなんとなくしか組み合わせて来なかったものが、一気にレパートリーが増えた。こんなに私のクローゼット、いろいろ出来たんだ。目から鱗だった。戦闘服、こんなにある。私はまだ、戦える。特に、白の七分袖に白のズボン、そして気分に合わせたジャケットを羽織る組み合わせが大好きだ。福袋に入ってたものの合わせるのが難しかったラベンダーカラーのカーディガンも、この組み合わせなら可愛く着ることができる。春しかできない楽しいコーディネートだ。

 

 どうやら傍目から見てもテンションが上がってるらしく、最近よく目がイキイキしてると言われている。車出勤に切り替えてよく寝るようになりました!と言ったら大体納得されるしそれも理由だとは思うが、お気に入りの戦闘服ラインナップが増えたのはとても大きい。

 

 そうなるとどんどんアクセサリーも増やしたくなった。この服に合うイヤリングが欲しい。ネックレスも可愛い。メルカリで買ったヴィンテージのDiorイヤリングが可愛かったのも大きいかもしれない。物欲が増えてしまったのはちょっと頭が痛いけど、可愛いものを眺めるのはとても楽しい。

 

 そんな日々を過ごし始めて1ヶ月になる先日。帰りがけに同期の男とすれ違った際に呼び止められた。『このコロナ禍にこの後デートか?』と笑われた。着ていたのは特にお気に入りの、ミントグリーンのワンピースだった。オフィスカジュアルでも通用するワンピースだが、元の購入目的は緑色が好きだった元彼とのデートのためだったなと思い出した。

 

『このコロナ禍に出かけられるか!ただ着てきただけ』

『いやそんな服着てるんやったらなんか意味あるやろ』

『あるとしたら連休直前の修羅場で戦うための鎧やね』

 

 そんなペラペラの鎧があるかと言いながら、彼は私から離れていった。連休直前で予約が多く、修羅場が確定していた。だからとびっきり好みのワンピースを着てきた。ちなみに連休後の修羅場に着るワンピースももう決めている。……まあこの男に理解されなくてもどうってことはないけど。ふと、出入り口の非接触型体温計兼サーモグラフィーに映る自分を見た。特に修羅場が確定している日だったから、化粧もいつもよりも丁寧にしていた。なるほどたしかに、人が見たらこの後映画にでも行きそうな格好だなとは思った。まつ毛も上がってるし目に光が入るし、耳元のイヤリングがキラキラと揺れている。修羅場後とは自分でも思えないほど顔が明るかった。

 

……昨年、通勤途中にこのまま駅で降りずにどこかに行こうかと思ったことが何度かあった。それならまだマシで、このままホームに飛び込んで仕舞えば楽になるかなと思ったことがあった。昨年の秋の終わりから冬にかけてが1番多かった。その時は、来年には目黒蓮の教場がある!とか滝沢歌舞伎ZEROの映画がある!!とか必死に楽しいことを考えていたけど。推しの未来の活動にすがるのは昔から変わっていない。でもあの時は本当に気持ちがどん底だった。職場の行き帰りの日課になった、出入り口での体温の確認。そこに映る自分の目は、この上なく黒く落ち窪んでいた。

 

 あれから半年。…たった半年なのかもう半年なのか。サーモグラフィーの中の私は、昨年冬の私と比べるとかなり変わっていた。たまたま戦闘服でテンションが上がっているからかもしれない。その日、殿堂入りの推し、山田涼介のサーティーワンスペシャルパックの発表があったからかもしれない。

 

 でも、私はまだ戦える。まだこの職場で頑張れる。妙な確信をそこで得た。ぶっちゃけ流れでついた仕事だしいろいろ不満もあるっちゃあるけど、職場の人には恵まれてるし何より結構この仕事が好きだ。

 

 このコロナ禍で、これから職場はまた劇的に変化するかもしれない。そうなると戦闘服で気合を入れる!なんて言ってられないほどしんどくなる日が来るかもしれない。無敵ピンクでどこかに逃げたくなる日が来るかもしれない。その時はその時だ。

 

 連休後、きっと職場は人で溢れかえってる。電話はひっきりなしだし入って1ヶ月のパートナーとかはてんやわんやでパニックだろう。でも、きっと大丈夫。裏に停まる無敵ピンクを眺めながら、私は確信している。

11年推してた自担からファンサもらったかも知れない話

もう時効だと思うから書く。世界が一変した激動の2020年を経て、すでに2021年もなにかと不穏な日々を送っている中、どうしても忘れたくない記憶がある。その記憶が薄れてしまいそうな自分が怖い。だから今、『かもしれない』ことだけど、この記憶を記録として書いている。

 

2019年12月1日。私はその日、疲れを押して京セラドームに来ていた。Hey! Say! JUMPのアルバムをひっさげてのドームツアー『PARADE』に参戦するためだった。ただ私は、この上なく疲れていた。

 

というのも、前日急遽先輩の病欠の代わりに休日出勤で仕事している最中、翌日のライブに同行する予定だった方が来れなくなったからだ。現金を用意できないからメルカリかラクマに私のチケを出品して、そこから買わせて欲しいと連絡が入ったのだ。そんなわけわからん転売まがいなことできるかとオブラートに包んで言ったら交渉決裂、私は参戦前日に同行者がいなくなってしまったのだ。妹も母も当時の彼氏も既に予定が入っていて、仕事が終わってグッズを買いに行く最中同行者を募ってなんとか決まった。

 

急用がいくつも入ると人間混乱する。私はかつてない疲労感で、ドーム前にいた。

 

私にとって2019年は思いがけないことの連続の年だった。ジャニオタ視点で言うと、ファンマナーによってアリーナツアーが潰れるという大変心苦しいことが起き、突然それまで興味を持っていなかった目黒蓮からのSnowMan沼にどぼんと落ち、掛け持ちになった。そして私生活では同期が職場の後輩になり、社会人2年目にして教育係になるという個人的には激動な日々を過ごしていた。そして何より、当時の彼氏からやんわりと明言はされなかったが結婚をかなり迫られていた。結婚すれば、自然と現場には行けなくなるだろう。現場どころかオタ活も絞らねばならない(結局その彼氏とは2020年にコロナのゴタゴタで揉めて別れてしまってこれは杞憂に終わった)。翌年もっと世界が変わると思っていなかったが、私はこれがHey! Say! JUMPの現場に入る最後の年になるのではという気持ちでいた。実際、2020年1月を最後に私は現場なるものに行けていないのだけど。

 

そんな気持ちで私は、前日に買ったグッズうちわと、双眼鏡、そして手作りのファンサうちわ…というよりメッセージうちわを持って参戦していた。

 

その時で担当歴11年になる、山田涼介さんに向けてのうちわだ。

 

うちわは2枚。1枚に『涼』、もう1枚に『介』。そして『介』のうちわ裏には、Hey! Say! JUMPファンにはお馴染みの9ぷぅの『くるすけ』を模したもの。『涼』のうちわの裏には、『いつもありがとう』というメッセージを入れていた。f:id:strawberrytart0509:20210110190028j:image

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『涼介』の文字をひっくり返すと、くるすけが『いつもありがとう』と言っているように見える、名付けて『くるすけお礼うちわ』である。2018年のHey! Say! JUMPの京セラドームのライブに参戦する際に作ったものだ。お恥ずかしながら、私は11年山田涼介さんを応援しておきながら現場に参戦したのはその2018年が初めてだった。門限だったり金銭的問題だったり、要は私は歴だけ妙に、長い現場歴のないオタなのだ。そしてようやく初参戦だ!とうちわを作ろうと意気込んで用意してファンサうちわの例を見ても、投げキスもじゃんけんも、もし山田さんが目の前にトロッコで来たとしてできる気がしなかった。というか…別にいらないかもファンサと私は思ってしまった。私なんかに、山田さんからファンサを貰いたいなんて烏滸がましいとすら思っていた。いっそ作らない方がいいかも知れないと思ったが、買った材料がもったいないという自分が顔を出した。

 

…逆に私が山田涼介さんに伝えたいことはなんだろう、と考えて浮かんだのは、感謝の気持ちだった。

 

前にこのブログでも書いたが、私は山田さんの仕事が見たくて生きてきた女だった。学校生活がとにかくうまくいかず、自殺したいと思った途端に山田さんに大きな仕事が入り、『ここで死んだら私絶対後悔する!』というのを繰り返して繰り返して、最終的に不登校にもならず生き残った女だった。結果的に、死ななくてよかったと思うことが年々増えていき、なんだかんだで毎日楽しい。

 

山田涼介さんがいなかったら、今の私はいない。よし、ありがとうの気持ちを書こう。

 

そう思って作ったのがひっくり返すとくるすけが『いつもありがとう』と言ってるうちわ、だった。

 

今見返すと両手持ち仕様だし、キラキラしてるしでうちわマナーからはみ出しまくってるうちわだ。これ持って行っちゃったか…と少し頭を抱えている。もう少しそこらへんを考えて作ればよかったなと今なら思う。

 

さて2018年に参戦した際、私はトロッコすら来ない席だったため野鳥の会と化した。

 

2019年、急遽朝から遠征してくださった同行者さんと落ち合い入った席は。

 

 

まさかのアリーナ。しかも、センターステージ前。自分の席の後ろは柵、その向こうは空間が空いてスタッフが音量か何かの機械を調節しているエリア。その機械の後ろがセンステだった。

 

そもそもデジチケをかざして表示された席の時点で悲鳴が出そうになった。

 

「あ、アリーナです!?」「嘘!?え!?嘘でしょ!?」

 

同行の方と何度も何度も確認した。同行の方も、まさか急遽参戦を決めたコンサートがアリーナ席と思わないだろう。しかも先に向かってみればセンステ前である。何が起きるか分からないと、同行者さんも実際おっしゃってた。分かる。私だって自分が同行者さんの立場ならびっくりする。

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さてこの時の『Parade』というコンサート。ドームツアー初日である2日前の時点で、とんでもない情報がJUMP担たちの間で飛び交っていた。

 

メンバーが、磔の刑に遭いながらムビステが360度縦に回転しながら近づいてくると。

 

何度読んでも分からなかった。絵で描いてくださった情報を見てもわからなかった。今書いてても見たのを思い出してもやっぱりあの装置は不思議装置すぎる。すごかったけど。

 

いつ出てくるんだろう噂の装置は、と思いながら私はその席でコンサートを見ていた。

 

さすがアリーナ、そしてセンステ近いだけあるわ…というくらい近かった。メインステージの様子を見るためにはある程度双眼鏡がいるが、花道やセンステを見るには双眼鏡が必要なかった。いやすごいな、そりゃアリーナいいわ…と思いながらその美しい世界に夢中になっていた。

 

そして、その時はやってきた。

 

磔の刑とも称された360°縦回転ムビステ。その名も『JUMPやぐら回転ステージ〜You回っちゃいなよ〜』の登場である。なおこの名前は2020年正月に判明した。

 

Hey! Say! JUMPのメンバーはこの装置に、左から見ると高木雄也、有岡大貴、八乙女光、山田涼介、伊野尾慧、知念侑李、薮宏太、中島裕翔の順で並んでいたのだが…。まさかの、アリーナ席の上だけを通る仕様の機械だった。改めて席運の差がえげつない。そして、この機械のすごいところはめっちゃ真上にいるHey! Say! JUMPが縦に回りながら近づいてくるということだ。そう、近づいてくる。

 

角度によってはガン見されるし、めちゃくちゃ近くにHey! Say! JUMPのメンバーの整った顔が来るのだ。 

 

そして私はというと、まさかの自担の山田さんが目の前に通る列だったのだ。そして伊野尾担であった同行者さんは、伊野尾ちゃんが目の前を通る列だった。いや今思ってもとんでもない席だった。

 

私の目の前に、逆さ吊りの山田さんがゆっくり回転しながら近づいてくる。アリーナ席はとんでもない悲鳴に包まれていた。私はというと、件の『くるすけお礼うちわ』を胸元に持ちながら固まっていた。

 

あの、あの山田涼介さんが確実に、こっちに来る。逆さ吊りで、来る。状況はカオスだけど、あの山田さんが私の目の前に来る。

 

そもそも現場に参戦できないことが前提だった女には、現場に行く権利が来ること自体幸運すぎることだった。それがアリーナ席、センステ前。あと少しで目の前に来るのは、逆さ吊りの自担。一気に頭の中に、一番辛かった中学時代のことが浮かんだ。クラスの端っこで仲のいい友達と固まって必死で励まし合って、登校していたあの頃。仲のいい友達が次々学校に来なくなる中、楽な自殺の仕方や遺書の内容を頭で考えながら生きていたあの頃。死ななくてよかったと中学卒業後何度も思ったけど、私は心の底からこの時『生きててよかった』と思ったのだ。

 

重くて痛い女だと笑ってくれ、でも私にとって山田涼介さんが生きる糧だったのだ。

 

山田さんが縦に回転しながら、目の前に来た。あの彫刻のように綺麗な顔が、前髪が落ちた美しい顔が目の前にある。私は少しだけ、『くるすけお礼うちわ』を高くあげた。顎にうちわの上部がざくっと刺さった。

 

山田さんと、目があった。綺麗な大きな瞳は少し目を大きく開いていた(もちろん私の勘違いだろうが今は目があったと思わせて欲しい)。

 

そして山田さんが磔にされた機械は、ゆっくり回転して上に上っていく。

 

だが、彼は顔だけこちらを向いていた。目は大きく開いたままだった。本当は他のメンバーもファンの方を向きながら上昇して行っていたかもしれない。だが私は山田さんしか見れていないのでこう書かせて欲しい。

 

私はというと、間近でみたHey! Say! JUMPの美しさに、『くるすけお礼うちわ』胸元に掲げたまま、固まっていた。そしてHey! Say! JUMPが行く方に体を向けて、立ち尽くしていた。うちわはまだ『いつもありがとう』と言ったままだった。

 

山田さんは自分が機械で通った列を見ながら、上昇していって、そして、固定用のベルトを外した。完全にステージが止まる直前に、先程ステージが通った後ろ側、私含むファンがいるアリーナ席側を覗き込むように向いた。しばらく、彼はこちらを向いていた。…あれ、こっち見てる?てか、目が合ってる気がする?と思ったその時。

 

山田涼介さんは少しだけ笑って、手を振った。

 

その真下にいる私たちファンは悲鳴を上げた。えげつない悲鳴だった。山田さんはそのまま前をむいてパフォーマンスを始めた。たしかUTAGE tonightだったと思う。だが、記憶にない。

 

私のこの日の記憶は、この山田さんのファンサで埋まってしまったからだ。ファンサというか、一連のうちわが見えるように立ってからのたった数分の出来事で。コンサートが終わるまで、私の涙はなかなか止まらなかった。

 

私のうちわはキラキラのホログラムがついていて、言ってしまえばジャニーズのファンサうちわでは違反している方だった。後から知ったが。こういうところがHey! Say! JUMPファンは民度が低いと言われるところなんだろうなとかなり反省している。だから妙に光っていたのかもしれない。だから、彼の目に入ったのかも知れない。

 

それでも、彼はこちらの方を向いていた。ステージが動いて、彼の後ろ側にいる状態になっても、わざわざこちら側を向いてくれた。私の思い込みだろうけど。

 

そう思いながらも、仲のいい山田担仲間のSNSでこの出来事を話したら、アリーナではない席にいた山田担さんが言った。

 

『ムビステ後ろ?前?ステージメンステ側に覗き込んで手振ったの、私双眼鏡でばっちりみてましたよ』

『あちら側にまわってあのタイミングでファンサするんだ!!って思ってたんです。』

 

……他の人から見ても珍しい、ファンサだったんだ。そう思った時、一気に涙が溢れた。

 

ファンサをもらえたかも知れないことが嬉しかったのではない。山田涼介さんに、あの『いつもありがとう』のメッセージを見てもらえたかも知れない。それがただ、嬉しかったのだ。

 

ファンサなんて私はいらなかった。ただ、いつもどんな時でもファンの前に立ち続けている彼に、お礼がしたかった。その気持ちで、うちわを作った。

 

少しだけでも彼にお礼が伝わればいいと思って持って行ったのに、手を、手を振ってもらえた。

 

帰ってから号泣した。出迎えた家族にとても驚かれた。そして神席だったこと、ファンサのことを伝えたら、母も泣いた。母は私が山田さんに生かされてきたことを、よく知っていた。よかったね、よかったねと。

 

この幸せな記憶さえあれば生きていけると、という表現を見たことがあるだろうか。私にとって、この山田さんから手を振ってもらった(と思いたい)記憶が、それにあたる。

 

今まで生きていてよかったと思う瞬間は何度もあったが、この出来事が2021年を迎えた今でもその頂点に当たる。今思い出しただけでも、正直泣けてしまう。

 

この出来事は、私の思い込みに違いないだろう。だってあの時あそこにいたファンはたくさんいるし、沢山のファンサうちわが並んでいた。『手を振って』も『じゃんけんして』も、『投げチューして』も見かけた。

 

でも、私が書いた『ありがとう』は、山田さんに伝わったと思いたい。

 

 

 

 

 

…さて、これ以降私は現場に行けていない。最後に行ったのはHey! Say! JUMPでもSnowManでもなく、先輩に誘われて行った宇宙Sixと関西Jr.出身の室龍太くんが出演した舞台『のべつまくなし・改』である。ちなみにこれめっちゃ面白かったので再再演があったら絶対行く!と思っていたのだが、大変残念なことが起こってしまったためもう見ることはできない。辛い。

 

Hey! Say! JUMPは、『PARADE』ツアーが終わって以降有観客の現場がない。掛け持ちのSnowManもデビューしたものの、滝沢歌舞伎ZEROもデビューコンサートも中止。コンサートは行えたものの、無観客配信のみだった。

 

当たっていた亀と山Pのコンサートは中止になったし山Pがジャニーズ事務所からいなくなってしまったため、とんでもない幻のチケットと化した。2020年、こんなはずじゃなかった。誰だってそうだろうけど。

 

……話は変わるが、私は地方の医療従事者である。看護師でも医師でもないが、医療従事者であり勤務先は病院である。免疫抑制剤を使う方と接する機会が多いから、自分がいつ持ち込むか分からないと思って県外には半年以上行っていない。県内の大型ショッピングモールも2ヶ月に一回行くか行かないかに抑えている。

 

現場に行くことができるのは、この状態だと何年先かわからない。山田涼介さんも、目黒蓮くんもいつこの目で見ることができるだろうか。

 

正直、私生活でもオタ活でもとても辛いことが増えた。職場は非常に人手が足りないし、春からはさらに人手が足りなくなることが確定している。世知辛い。

 

でも、それでも辛い時はこの記憶を思い出す。たった一瞬の、きらきらした出来事。自分の人生の中に起きた奇跡の記憶。

 

重いファンだと笑ってくれ。でも、私はこの記憶を頭の隅っこから引き出して思い出しては、幸せな気持ちになる。永遠に溶けない飴玉みたいだと思う。甘くてキラキラしたこの記憶を、私は反芻して頭の中でころころと転がす。3分あるかわからないこの出来事は、私の一生の思い出になった。

 

いつか、この記憶が塗り替えられる日は来るのだろうか。…永遠に来ないで欲しいなと思いつつ、いつか塗り替えられる出来事が起こることを楽しみに、私はまた働く。いつか現場に行けることを願って。

 

 

24歳ジャニオタ、ハガキにハマる。

 東京都中央区、東京都港区赤坂、東京都千代田区…。すっかりもう指になじんだ地名たち。私はここ半年ほど、ひたすら東京宛にハガキを書いている。『an・an』の住所は特に諳んじれそうなほど書いてきた。ありがたいことに、それほど私の推しは『an・an』に載せていただいた。あと要望のハガキも結構送ったな。

 中央区、という字を見ると"目黒"と"恵比寿"という地名を聞いた時と同じくらいニマニマしてしまう。『FINEBOYS』編集部がある日之出出版も、『an・an』編集部があるマガジンハウスも、そして『AERA』が発行されている朝日新聞出版も、中央区にあるからだ。テレビ局が多いのは港区な気がする。といってもTBSさんに推しのレギュラー番組がある故にハガキを送ってるからのような気がしているけれど。

 

 

 

 私はこれまでジャニオタを12年やってきているけれど、ここまでハガキを書いたことは実はなかった。雑誌に投稿をしたことは2回ほどあるが、それもメールで、いわゆるお便りコーナーで、だ。アンケートハガキがついているのは見たこともあるし、『撮影グッズプレゼント』の文字も、アイドルが持っている可愛い商品の懸賞ページももちろん見たことはあるし、推しがそこに載っていたら切り取っていた。だが、ついぞその懸賞に応募したことも、ましてアンケートハガキを送ったこともなかった。

 それが、2020年になってからとにかく出版社やテレビ局にハガキを送りまくっている。そして、Twitterで #スノ担ハガキ部 のハッシュタグをつけては写真を載せている。一番古いハッシュタグは、5月の下旬の投稿だ。FINEBOYSにSnow Man目黒くんが単独表紙を飾らせてもらった上に、それを重版してくださったお礼のハガキだ。そして私は毎月1回は必ず、多い時は3回ほどハガキを書いて送っている。

 

 

 そもそも私が推しのお世話になっている会社にハガキを送り出したきっかけは、Snow Manが主演した舞台、『滝沢歌舞伎ZERO』だった。私は『滝沢歌舞伎ZERO』の公演のあとにSnow Manにハマったので、『滝沢歌舞伎ZERO』の情報を得ようにも過去のレポ雑誌やTwitterなどしかなかった。私がそれまで好きなジャニーズが、ジャニーズ特有の舞台に出たことがデビューしてからは一回しかなかった為、『滝沢歌舞伎』も知識としては知っていてもどんな舞台なのか未知の領域だった。ジャニーズで歌舞伎をしているんだろうな、とは思っていた。でも時々流れてくる写真や映像でずぶ濡れになっていたな…?という認識だった。

 過去の雑誌で読む『滝沢歌舞伎ZERO』は、煌びやかな和のエンターテインメントの世界がそこには広がって…いたのだがなんせ予備知識があまりにもないため、分かるようで分からなかった。というかめっちゃ演目がある。色々やってる。『歌舞伎』というタイトルだけど歌舞伎以外もやってるのね…。変面?殺陣?え、総踊りとは??そして鼠小僧とは???あ、ずぶ濡れになってるのこれなのね。山田涼介くんがジャニワ初演で綱渡りやったり赤穂浪士やったりしたようなものか。それにしてもめっちゃ色々あるな。

 

うん、これ見たほうが早いわ。映像化…されてねえええ!!!

 

 となって頭を抱えたのが2019年6月後半から7月上旬の話。まあ『滝沢歌舞伎ZERO』の公演終了から1ヶ月と少し経ったくらいだったし、何よりSnow ManはドラマだったりいろいろとJr.だけど仕事が決まってて忙しそうだった。YouTubeもあるし。だから映像化するとしたら早くても、もう2ヶ月ほど先だろう。それに、Hey! Say! JUMPの主演したジャニーズ・ワールドが映像化されてないように、ジャニーズ主演であっても映像化は確定されていない。DVDは撮影していたみたいだけどさ…。

 

 ということで私はひたすらお知らせを待つことにした。…が、それから3ヶ月ほど後、私はなかなか衝撃を受ける一文を見つけたのだ。それは、タッキーこと滝沢秀明副社長のファンの方の過去の呟きだった。

 

滝沢歌舞伎って映像化はだいたい二年毎よね』

 

…に、二年毎?え、たしか2018年って映像化されてたっけ…。 

 

されてる!がっつりされてる!!え、じゃあ私が滝沢歌舞伎ZEROを見るには来年の公演に行くか、それの映像化まで待たないといけないってこと!?うわありそう!『東京オリンピックの中行った公演の待望の映像化!!』とかの謳い文句で売り出しそう!!!

 

と思って危機感を感じ、私は翌日の仕事の帰りに百均に駆け込んで、歌舞伎っぽい柄のシールやマステや筆ペン、そしてハガキを買い込んだ。

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 自分がちゃんと『滝沢歌舞伎ZERO』の世界観を知りたい、と思ったのもあるが、何より私は、9人になったSnow Manの激闘の成果を映像として残して欲しかったのだ。

 この『滝沢歌舞伎ZERO』をSnow Manが引き継いだ報道を見た時、私は会見にメインで映る6人と、後ろにいるジャニーズJr.たちをぼんやりとJUMP担(どっちかというとスト推し)としての目線で見ていた。『まあ、ある意味妥当だよなあ。それにしてもよかったなあSnow Man担さんたち…。Snow Manもおめでとう』と。

 

 それが9人での主演に切り替わったのが、その半月後のことだった。いや本当に衝撃だった。そして、加入したメンバーに後の自担になる目黒蓮くんがいたことも。亀梨くんを好きな身近な人の影響で、目黒蓮くんは名前だけは知ってる状態だったのだ。そしてしばらく、JUMPとストでフォローしてるはずのTwitterでのタイムラインでも、見るに耐えない誹謗中傷が目に入っていた。主に加入組への罵倒。そして6人へのどうして?という気持ちと、会社への罵倒タッキーへの罵倒。そして『これがうちじゃなくてよかったー』という謎の安堵のツイート。なんというか、悲しいカオスがそこに広がっていた。

 

 当時他担であった私にもそれが目に入っていたのだから、当の本人たちにもその声は届いているだろうなとは当時から思っていた。実際届いていた。ポスターに加入組の写真にだけ引っ掻き傷でバツをつけられていた事件のことが。そして声を上げた目黒くんのブログのことも、それを非難する声も、援護する声も他担の私にも流れてきた。『あぁ、Snow Man頑張れ。他担だけどさ、私。頑張れほんと…』と、外野ながら思っていた。5月5日の公演で最年長のふっかこと、深澤辰哉くんが泣いて『辛かった』『僕だけじゃ守れないんです。だから、皆さんも力を貸してください』と言ったことも回ってきて、もらい泣きしそうになった。とにかく、9人に報われて欲しいと思った。

 

 そして、その半年後私は目黒くん沼にどっぷり浸かっていて2019年秋になっていた。Snow Manにハマる前、そしてハマってからの色々なことが頭によぎりながら、とにかく、思いを10センチ×15センチの白い世界に目一杯書いた。書いて、書いて、書いて、送り続けた。

 私にハガキを送る大切さを教えてくれた亀梨担さんたちのいろんなハガキを参考にしながら、とにかく送りまくった。

 

いやでも今見返してもほんとすごいし流れもすごいので、#亀梨和也ソロコン映像化希望 のハッシュタグを見るか、自分のブログですけど皆さん読んで欲しい。ハガキすごいよ、そして執念も。

ハガキが掴んだチケットとDVD〜他担から見た亀梨和也ソロコン映像化備忘録〜 - 七竈の食器棚

 

 ただ私は、滝沢歌舞伎ZEROが見たくてたまらなくて書いていただけだった。だが私は、この白い小さな世界に彼らのことを関連付けてデコレーションしたり文字を書くことを、『楽しい』と思い始めた。

 

この着物のシール、お丸さんっぽいな。

あ、この隈取りの顔、ひーくんの五右衛門みたいな顔してる。

ちょっと空いてるスペースにあべぞうの『令和』入れようかな。

いや、やっぱここは『ひらりと桜』にかけて桜の花びらのマステ貼ろうか…。

 

とにかく『滝沢歌舞伎ZERO』の映像化希望をメインに書きつつ、隙間にデコレーションをすることが楽しくなった。

 

 そして、2019年冬まで私は送り続けたのだが…私は一旦燃え尽きた。というか2020年始めから職場が医療現場である故にいろいろと怒涛だったのだ。あとSnow Manのデビューラッシュ。そして山田涼介くんの映画公開。ドッタバタでハガキを全然書けなかった。

 

 そしてそんなこんなでドタバタしてたら、2月下旬に滝沢歌舞伎ZEROの映像化が決まった。声をあげて歓喜した。よっしゃ!滝沢歌舞伎ZEROが見れる!!だって今年行けるか、ていうかやるかわかんないしほんとに!!!と思っていた。実際公演できなくなったので、映像化されて本当に嬉しかった。

 

 ハガキを送ったことがきっかけで映像化された、とは正直思ってはいない。少なくとも『DVDをご覧の皆さん』というお丸さんの挨拶のレポは上がっていたから。どこかで映像化されるだろうけどいつされるかは分からないと思っていた。単体ではなくても、あるとしたら2020年公演の初回限定盤特典かなとかも思っていたし。

 

 だが、私がこれまで以上にハガキを書くことにハマったのは、確実に出版社にその声が届いていることが見え始めたからだ。

 実は私は、老眼の母に代わってアンケートハガキを代行している。母が定期購読している美容雑誌のアンケートページの質問、ならびにハガキの質問が非常に字が小さくて読みづらいのだ。メガネをかけた上で虫眼鏡で目を凝らして読んで書こうとしている母を見ていられず、私が母にその文字を読んで、質問に答えてもらって書く、というのが毎月恒例の行事になった。そして、少しわがままを言って『今美容術を聞きたい方は?』などの質問に『渡辺翔太くん』と書かせてもらっていた。母はその美容雑誌が大好きだ。雑誌業界もなかなか厳しい。ましてや、このコロナ禍で化粧品を主に取り扱う美容雑誌も、相当大変だろう。雑誌でもなんでも、続けていくには買う、そして声を届けるしかない。私は母の好きな世界のためにも、協力していた。

 

 そんなある日、その雑誌に渡辺翔太くんが載ることになったのだ。その知らせを知った時、『アンケートで、何度か書いていたけどもしかして届いていた…?』とぼんやりと思った。いや美容ということで渡辺担のお姉様方(勝手に私はスノ担はお姉様が多いと思っている)が送っていたのだろうとは思うけれど。でも、好きなグループの、それもメンバーの好きな世界にまつわる仕事に自分の声が届いたのかもしれないと思うと、ちょっと嬉しかった。そして、その少し後にこんな呟きが回ってきた。

 これは、日経ヘルスという美容と健康の雑誌に渡辺翔太くんが載った時の、お礼のハガキに関しての出版社のツイートだ。

日経ヘルス(公式) on Twitter: "8月号では Snow Man #渡辺翔太 さんのインタビュー記事にたくさんの反響をいただき、ありがとうございます。丁寧に書いてくださったお葉書がこんなにたくさん編集部に届きました‼️感激です(T . T) 渡辺くんにまた出ていただける日が来るよう頑張っていきたいと思います😆 #日経ヘルス… https://t.co/V1ZOydXBR9"

 

 

一面の、彼のメンバーカラーである青に染まったハガキたち。そして素敵なデコレーションたち。

 

なんて、綺麗なのだろう。その途端に、『滝沢歌舞伎ZERO』の要望ハガキを送っていた時のことが蘇った。

 

 あの時、私はとても楽しかった。元から、絵を描いたりお話を書いたり、真っ白な世界に自分の世界を作ることが大好きだった。大学時代、退任される教授に送るアルバムをデコレーションしたことがある。教授が好きそうな可愛らしいお花や、アンティークの飾りが印刷されたマスキングテープや紙で三時間かけてデコレーションした。フリル柄のマスキングテープを切って、タイトルの周りに楕円形になるように細かく角度をつけて貼って…と、自分なりに凝った。私は楽しくデコレーションしただけだけど、教授にも友達にもめっちゃ驚かれたし喜ばれた。教授が喜んでいる姿がとても嬉しかった。

 

『あの時のように、楽しいハガキを書きたい。っていうかなんかやりたい。いや充分楽しいけどなんか、何か楽しみが欲しい』

 

 コロナによる自粛が少しずつ緩和された、といってもまだまだ色濃く影響が残っている時で、私は職場と家を往復する日々が続いていた。Snow Manはありがたいことに雑誌にめっちゃ載せていただいていた。

 アイドル誌は新たな撮影が難しいため、過去の企画の振り返り企画などをやっていたり、私の知らないSnow Manがいて楽しかった。でもどこにも出かけられないストレスは溜まる一方ではあった。大きな本屋が近くにないため、通販でひたすら雑誌を買う日々が続いていた。

 今までは大型の本屋に行って立ち読みしたりブラブラしながら雑誌を買うことができたし、それが大好きだったのに。バックナンバーを見つけて思いがけない記事を読んで買って帰る…という昨年の夏に楽しんでたことが、今年は一切できていない。

 

『このコロナ禍でも楽しい雑誌を作ってくれた出版社にお礼をしよう。ていうかハガキ書いて楽しもう』

 

 ちょうど、目黒くんが単独掲載されたBAILAにまだハガキを書けていなかった。『滝沢歌舞伎ZERO』の映像化の要望ハガキために買っていたハガキやペンを引っ張り出し、ハガキを書いた。BAILAさんとタイトルは今月号はオレンジ色だった、あ、そういえば目黒くんが着ていたパジャマ可愛かったな、あれ何色だっけな…と、雑誌のページを再度開いて、いろいろ考えながら書いた。

 

 FINEBOYSへの重版と表紙のお礼のハガキ以来書いたハガキは、ちょっとだけ不格好だった。満足はしてるけど、もっと、もっと素敵なハガキを書きたい。ていうかやっぱり楽しいわ…。

 

 それからというもの、私は #スノ担ハガキ部 のハッシュタグを検索していろんなハガキを見て、お礼のハガキを書くようになった。ありがたいことにSnow Manも目黒くんもたくさん雑誌に載せていただいた。そしてテレビにも出させていただいた。送り先はたくさんあった。

 

 女性誌に載せてもらったし、お花のマスキングテープ貼ろうかな。阿部くんの爽やかな緑を意識したいな。康二くんが載ってたし、オレンジのマスキングテープにしようか。この目黒くんの衣装好きだからちょっと柄をハガキに描こうかな。

 

 切手にもこだわり始めた。このコロナ禍で、出版社やテレビ局のスタッフさん達も距離を考えて撮ったり、今までならできた特集が難しいはずだ。裏面まで見るか分からないけど、面白い切手を貼って笑ってもらえたら嬉しいな。そんなことを思ってお相撲さんの切手を買ったり、柄を選ぶようになった。日本郵便のサイトをアクセスしては、楽しい柄の切手の情報を見るのが楽しみになった。

 

 そんなこんなで、この5月から #スノ担ハガキ部 のタグをつけて投稿したハガキを数えてみると、28枚。アンケートハガキを含めると30枚は優に超える。これでも私はたぶん少ない方だと思う。主に雑誌に送っているから。…でも待ってどんだけ雑誌買ったんだ私。額を考えると恐ろしい。

 

 何もそこまでしなくても、と思われるかもしれない。自己満足だけど、とにかく楽しいのだ。いまだに職場と家の往復が続いているし、現場はないし、そして仕事の激務で体はしんどい。でも、休日やどうしても寝れない日にハガキを書くと、なんだかすっきりするしとても楽しい。

 

 今はハガキの中に、メンバーが着ていたり誌面で食べていたものをイラストに描くこと、メンバーカラーを入れることにハマっている。

 特に自担の目黒くんのレギュラーモデルをさせて頂いているFINEBOYSにハガキを書くときは気合を入れる。そして目黒くんが着ていた服の中から、可愛いと思った服の柄を入れることが、とにかく楽しい。

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 編集部にどこまで伝わっているかは分からないけれど、ハガキがメンバーにも届いていることは確かだ。目黒くんはFINEBOYSの撮影に行ったらお礼のハガキをたくさん見せてもらった、とブログで言っていたし、康二くんは実際に現場で読んでると言ったし写真をつけていた。それ以来私は以前よりも字に気をつけて書いている。と言ってもめっちゃ密なハガキになってしまうからあまり意味がないかもしれないけれど。今の私の課題は、読みやすいハガキだ。

 

 10センチ×15センチの世界に、ありったけの好きとお礼の想いを込める。出来上がった時の達成感がたまらない。

 

 次は、どんなハガキを書こうかな。そんなことを考えながら、今日も私は雑誌を開いて、テレビを見る。

涙という意味の雑誌の話をしよう。

私がその雑誌を知ったのは高校3年生の春だった。

 

当時私は大学受験を控え、学校終わりはすぐ塾に直行していた。持った夢を確実に叶えることができる志望校は成績から考えるとはるか雲の上で、それでもそこに、もしくはその夢が叶えられそうな学校に行きたくて塾に行っていた。

 

そんなある日、塾に行く前にどうしてもとあるアイドル誌を読みたくて、高校から徒歩5分のショッピングモールの大型本屋に立ち寄った時のことだった。私の目当てはアイドル誌だったのに、アイドル誌コーナーのそばのとある雑誌が目に入った。

 

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ピンク色の枠に、可愛い女の子二人が頭を寄せ合うようにポーズを決めている表紙。見たことのない雑誌だった。

 

「あ、みるきーじゃん!」

 

 私はそう言って思わずその雑誌を手に取った。というのも、当時二人のアイドルが私にとってミューズ的なものだった。

 

一人は、渡辺麻友さん。とにかく可愛くて、中学時代からこんな女の子になりたいと思っていた。

 

もう一人は、渡辺美優紀さん。出身県かつ高校が一緒で、こんなど田舎からこんな可愛いアイドルが生まれるなんて…と憧れていた。高校一年生の時に一度ショッピングモールのイベントにNMB48メンバーが来たことがあった。私はそのイベントがあると知らずにそのブースに向かう渡辺美優紀さんとすれ違った。思わず振り返ってしまうほど小さくて白くてでも柔らかそうで、可愛かった。私とは大違いだった(比べるほうが失礼だ)。

 

全ての出演情報をチェックしているわけではない、でも表紙を飾ったら見てしまう。そんなお茶の間ファン中のお茶の間ファンをしていた私はその見たことがない雑誌をパラパラとめくった。

 

衝撃的だった。な、なんだこの雑誌は。どのページにもレースやリボン、でもどこかセピアだったりパステルだったり。なんというか、非現実的で…昔のフランス映画の世界のような。ていうかめっちゃ可愛くないか?

 

当時の私の中でファッション誌といえば、専属モデルさんが「私、○○!高校二年生の普通の女の子!」なんて言いながら気になる男の子とデートしたり友達と遊びに行ったりする時の服の着回しを紹介していたり、いわゆる日常のオシャレを載せている…自分とは違う"陽"の世界だった。

 

もちろんこんなページばかりではないと今ならわかるが、当時の私はファッション誌を手に取る時は後ろからめくっていた。なぜなら、だいたい自分の担当アイドルが掲載される時は後ろから見た方が早かったからである。連載を持たせてもらってる雑誌もそうだったし、そうではない雑誌でも前から見るよりは後ろからめくる方が早かったのだ。

 

私にとってファッション誌は後ろからめくるものだったのに、その雑誌はどこをめくっても可愛くて、不思議な世界で、表紙の二人以外のモデルさんも見たことがないくらいお人形さんのような人ばかりだった。(とにかく当時モデルの知識が皆無だった。)

 

「こんな雑誌あるんだ…なんて名前なんやろ。」

私はそこで初めて雑誌の名前を読んだ。

 

LARMEという名前だった。

 

のちにこの雑誌の名前がフランス語で『涙』を意味する言葉で、当時の編集長が『すごく嫌なことや悲しいことがあっても、可愛い写真を見ることでちょっと忘れられる。LARMEが皆の涙の代わりになってほしい』という思いを込めてつけたと知った。

 

 

 

 

 

 

私はその時は、LARMEを買って帰らなかった。最高に金欠かつ、受験生ゆえに自担のアイドル雑誌もCDも絶ってるような状況で、ファッション誌を買うのは自分の中でありえないことだった。大学生になったら、買おう。こんな可愛い大学生になりたいと、そんなことを思っていた。

 

 

 

 

 

そして月日が過ぎ、第一志望ではないものの志望校の一つに合格したある日、私は塾に合格報告の帰りに例のショッピングモールのいつも行っていた本屋に寄った。そして真っ先にファッション誌のコーナーに行った。

 

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キラキラしたスノードームの中に、二人の可愛い女の子がいる表紙。タイトルを読まなくても、一目でLARMEだと分かった。他の女性向けファッション誌とは全然違う、甘くて不思議な世界観の表紙。それがLARMEだった。

 

胸を躍らせながら購入して帰り、まだ参考書でいっぱいの部屋の中で夢の世界に浸った。こんな格好をして外を出歩いてる人間は、田んぼと畑だらけの田舎にはいなかった。私がこんな格好をして出歩いたら下妻物語深キョンみたいになるだろな(深キョンみたいな美貌じゃないけど)。浮きまくるだろうし、保守的な方が多い地域だから指差されてひそひそ陰口を叩かれるだろう。不審者にあった小学生を嫁にいけなくなったと嘲笑うお年寄りがいる地域で、こんなカッコはできない。でもしてみたいな…都会はいいな…。高校三年生の終わりにしては浮ついた考えだったとは思う。でも現実を忘れさせてくれるそのLARMEの世界に、私は足を踏み入れたのだ。

 

 

 

 

 

大学生になり、私は愕然とした。大学近くの、Tで始まる大型有名書店にLARMEがなかったからだ。

 

そもそもLARMEは最初季刊誌で、定期で隔月になったのは003号から。私がLARMEを初めて見たのは004号だった。004号を見たのも大型書店だったが、正直私は驚いたのだ。今までこんな可愛い雑誌を見逃していたなんて、と。

 

私は実は雑誌コーナーがとにかく好きで、高校の帰りに本屋で雑誌コーナーを一周し、いろんなジャンルの雑誌を眺めるのが大好きだった。004以前の歴代のLARMEの表紙を見てもそれまでの表紙を本屋で見たことがなかったことから、おそらく004からその本屋でも置かれ始めたのではなかろうかと思う(思い違いかもしれないが)。

 

ちなみに通販というのは自分の頭の中にはなかった。雑誌、本は本屋で買うものと思っていたからだ。

 

意気消沈しながら大学生活を始めたある日、サークルの先輩から大学の最寄駅のそばのスーパーにできた本屋がそこそこ大きいと聞いた。「絵本も漫画も雑誌も充実してるんよ。探してた本置いてて嬉しかったわー!」と彼は豪快に笑っていた(大学生が絵本?と思った方に対して注釈をつけると、私も彼も教育系の世界で名が通る大学に教師を目指して通っていた)。

 

あの大型有名書店でもなかったし、ないだろうと思いつつも私は彼に案内されながらその本屋に向かった。

 

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あった。逢沢りなちゃんがいた。嘘でしょと思わず声が出た。そしてその本屋は彼のいう通りなかなか充実していた。LARMEだけじゃなくてLula(イギリス発の可愛いファッション誌)もあった。Lulaもあるとか…ここは天国か!?とびっくりした。店主のおじさんも優しそうで、品揃えも良くとにかく私にとって最高の本屋だった。

 

そして私は、奇数月の17日になればLARMEを買いにその本屋に行くようになった。

 

この本屋以外でも、私は出先で書店に立ち寄るたびにその書店にLARMEが置いていないかチェックするようになった。そして、前は置かれていなかったのに最新号のLARMEが置かれていたり、毎回置くようになった書店が少しずつ増えていった。私の地元の田舎のイオンの本屋にも置くようになった。

 

自分が好きな世界が、人に知られていくのが本当に嬉しかった。私がLARMEを毎号買うようになって一年が経っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「あれ?LARMEってこんなこと載せてたっけ」と思ったのはいつの号だったろうか。その時私は大学に向かうバスの中で買ったばかりのLARMEを読んでいた。たしか編集長が変わったとは聞いていたが、私はそのとき信じられないものを見た気がした。

 

……今、おっぱいケアという言葉がなかったか?

 

今、モテがどうとかなかったか?

 

私はLARMEは、モテとか気にせずに自分の好きな格好をする雑誌だと思っていた。おっぱいケアは、まあわかる。理想のバストの形とか触り心地とかあるのかもしれない。でも…正直LARMEは男の人受けしない女の子がいる世界だと思っていなかった。彼氏からも正直ウケが悪かったし、というかそんな男受けを気にする雑誌だと思っていなかった。……私の思い違いだったのかな…と、見ないフリをした。

 

だが、LARMEは読みながら少しずつ、服のメインページではなくケア的なページで違和感を持つようになった。

 

一番衝撃だったのは、クリスマス号のパーティー特集ページだった。総レースのランジェリーが載っていた。いや可愛いよ?綺麗だよ、綺麗だけど。女同士でもそんな派手な、いかにも勝負下着ですなやつ見せ合わないよぶっちゃけ。ていうか着ないよ…。

 

私はその時から、LARMEが自分の価値観に合わなくなってきたんだなと思うようになった。

 

LARMEの世界に出てくるような女の子になりたいと、高校三年生の私は思っていた。私がなりたかった職業は5人の枠に300人応募してくるという厳しい世界で、その資格を得るためにはしんどい日々でも可愛い女の子の服を着てれば乗り越えられるかもしれないと思っていた。

 

でも現実は違った。小学校かよ!と言われそうな月〜金まで1〜5限みっちりの大学の授業のカリキュラムをこなし、バイトも定期的にできず金欠で、服は基本しまむらで私は過ごしていた。強いて言うならメイクだけはお人形顔を目指していた。もちろん元が元なので、似ても似つかない顔だったけれど。

 

LARMEのような女の子になりたくても、田舎の大学生にはかなり限界があった。ガッツがあれば出来たかもしれないけど、私には無理だった。だって可愛い服やアクセサリーは持ってたら私を満たしてくれるけど、それを買ったら代わりに友達と遊んだり彼氏と出かけたりの交際費が賄えなくなるし、授業に必要な細々としたものが買えなくなる。そっちの方が恐ろしかった。

 

LARME一冊で、私の可愛いは満たされていた。でもだんだん、私の中の理想の"可愛い"と今の自分のニーズが合わなくなっていた。もう好きな格好だけしてればいい自分でいるには、タイムリミットが迫っていた。もっと、社会人に近づくために変わらなければいけない時期になっていた。

 

仕方ないわな、と割り切った。もっと今の私には必要なものがある。いつまでも夢を見てはいられない。LARME買うよりは、就職してからも浮かない格好を参考にできるものを見ないといけないと思っていた。

 

 

 

……いや、本音を言うとLARMEが変わったと思いたくなかった。

 

 

 

私が定期的に買わなくなり、就職してからも立ち読みだけはしていた。そして、ここ近年LARMEに付録がつくことが増えた。いや、今までも付録がついていたことはあったけど、プラスチックの付録じゃなくてモデルを載せたクリアファイルだったり、一人のモデルにスポットを当てた小冊子だった。ポーチにコスメだったりスマホリングなどの、小物ではなかった。

 

今の女性誌は豪華な付録がつくことが当たり前だが、LARMEに付録がつくようになったのは私には衝撃だった。5周年号のマイメロポーチはわかる。アニバーサリー、しかも5周年号だから。でも毎号つくようになるとは。もともとLARMEを創刊した編集長は、小悪魔agehaの編集に携わっていた。小悪魔agehaは今は季刊誌だが、かつては30〜40万部を誇った人気雑誌だった。そしてその小悪魔agehaには付録が付いていなかった時期が長かった。創刊した編集長の意向で、付録がついていなかったのだ。その編集長は、付録をつけろという圧とも戦っていたそうだ。私もわりとそうだが、付録を見て雑誌を選ぶ人は多いのではなかろうか。付録を見て、雑誌の中身を見ない(もちろんそんな人ばかりではないだろうけど)。おそらく編集長はそれを恐れたのだ。その編集長が小悪魔agehaを抜けた途端、小悪魔agehaに付録がついた。LARMEを創刊した編集長は小悪魔agehaの編集長のように付録をつけない主義だと、どこかの記事で見た。

 

その編集長がLARMEを離れて、かなりの年月が経っていた。

 

付録がつくと付録代でコストがかかる。コスト回収に雑誌の値段も上がる。LARMEも付録がつくことが増えてから、付録がついた号は値段が上がっていた。私が初めて買ったLARME008は、専属モデルの菅野結以ちゃんのフォトブックがついてない号なら607円(ついてたら1030円、なお私が買ったのは記念を含めこっちだった)。スマホリングがついた038号は794円。200円近く上がっている。

 

私は定期的にLARMEを買わなくなってから2度、LARMEを買った。一冊は白石麻衣ちゃん卒業の034号。もう一冊は、043号。Twitterでとある雑誌の付録が可愛いというのを見て驚いたのだ。この可愛いアイシャドウはなに?と。見たらLARMEの付録でまた驚いた。考えてみれば、この号も2冊とも付録がついていた号である。白石麻衣ちゃん卒業号は白石麻衣ちゃんのフォトブックがついていた。

 

久しぶりに買ったLARMEは、私が好きだった世界を残しつつ、知らない女の子がかなり増えていた。ザ・お人形といった感じの女の子が減った気もした。でも仕方ないし、私はもうLARMEの読者層ではないことはわかっていた。時代は、流行は変わっていく。生き残るために変化は必要なのだ。でも私が地味にLARMEで一番好きだった、イラストレーターのree*rosee(@reerosee)さんのCinema Fashion Roomという、映画の可愛いファッションを紹介するコラムページだけは変わっていなかった。変わらず、素敵なイラストでみっちり映画のファッションを紹介していた。私が夢中になった頃と、変わっていなくてちょっと嬉しかった。

 

私はLARMEを一読して、そして、付録のアイシャドウを開けた。そのアイシャドウはコンサートに、クリスマスデートにとかなり活躍した。なんどパッケージのSwanKissのロゴを見ただろう。可愛いと言われてとても嬉しかった。

 

久しぶりに買ったLARMEはというと、買った時に一度見て、開くことはなかった。

 

 

 

 

 

 

LARMEが休刊したと知ったのは、2020年5月。コロナで色々な楽しみが根こそぎなくなっていた春のことである。その休刊号が出てから、1ヶ月半は経っていた。衝撃と共に、まあ仕方ないか…という気持ちがあった。コロナ関係なく、ただでさえ不況なのに消費税は上がった。LARMEを作る世界は、可愛いけどお値段は非常に可愛くなかったことは知っていた。

 

せめて最後のLARMEだけは見ようかな、と仕事帰りに田舎の寂れた商店街の本屋に立ち寄った。そこに最後のLARMEは置かれていた。私がLARMEを読み始めた頃は、ここはたぶんLARMEを入荷してなかっただろうに。LARMEはシャッター商店街の本屋の片隅にも入荷されるメジャー誌になってたんだな…と謎の感動があった。休刊だけども。

 

最後のLARME、045号は付録がついていなかった。

 

『私たちに必要な、愛すべきガーリーのすべて』というタイトルを見た途端、なんだか涙が出た。私はもうガールではなく、ウーマンだった。かつてあんなに憧れたガーリーとは程遠い、とにかく着替えやすくて動きやすい、田舎道でも浮かない変な目で見られない服で通勤していた。完全に女の子ではなかった。鏡に写っていたのは、仕事で疲れた顔をしたただの女だった。

 

私の青春が終わった…と思いながら読み進めた。豪奢なベットに横たわるモデルたち。キラキラ、ふわふわのジュエリー。セピア加工された写真にフランス映画のようなドレス。あー、久しぶりにLARMEだー…下着もおっぱいケアもなーい!

 

……が、それとは別の小さな違和感があった。

 

……休刊なのに、定期購読のお知らせがある?

 

SHOWROOMオーディションで決まったLARME teensという女の子たちを、これからもよろしくねと載せるか?(いやLARME webで活躍してもらうためだろうけども)

 

なんか休刊って感じがしないな。でも随所に終わりが見える、不思議な号だな。あれかLARMEは終わるけどそれぞれのガーリーは生きていくってことか…と自己完結しながら読んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

8月。LARMEの復活が決まった。それも初代編集長で。初代編集長がどのような経緯でLARMEを復活させることになったのかも読んで、感動した。会社ってやっぱ恐ろしいなあ、でもあの好きなLARMEが返ってくるのか!それも来月!!よしそれまで生きる!!!と。

 

そして新しいホームページがあまりに可愛くて、思わず似たような趣味の同期に送りつけた(その子はLARMEを知らなかった)。

 

 

 

 

LARMEの表紙が出るのを楽しみにしていた。私は、LARMEのインテリアとして飾っても可愛いようにこだわった表紙が大好きだった。実際、3冊はコンビニでポスター大に印刷をして部屋に貼っていた。

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あの、LARMEが返ってくる。私はもう読者のターゲット層ではないけれど。あぁ、どんな表紙だろうと思いながら9月17日がくるのを楽しみにしていた。

 

 

 

 

本当に、楽しみにしていた。

 

 

 

 

……モデルに罪はない。いや、私がきっと変わっただけなんだ。

 

 

 

 

 

 

9月17日、0:00を回ってすぐ。あれ?そういえばLARMEの表紙出てたっけと検索をかけたら、嘆きのツイートが出てきた。そして、表紙の画像も流れてきた。

 

 

 

 

 

 

……モデルに、罪はない。時代の変化だ。私の、変化だ。ただ私がLARMEのターゲットじゃなくなっただけなんだ。そうなんだ。

 

でも、あの頃のLARMEはもう、戻ってこない。

 

 

今私は、LARMEの最終号の、専属モデル菅野結以ちゃんの連載ページ、ユイトピアを見ている。薔薇の葬列というタイトルの写真。ウェディングドレス姿の菅野結以ちゃんが、美しい花に囲まれて棺に横たわっている。そこに添えられた、RISA LEEさんの美しい文章。

 

『ほんとうはただ こんな風にこどもじみた遊びをできるだけ長く続けていたいだけ 

旅が終わらないように寄り道ばかりして 大袈裟な思春期を長引かせていたいだけ』

 

『だけど、もう気づかないふりはできないくらい季節は変わって ぼくらは変わって

目が覚めてしまったあとでは

あんな日々は遠い誰かの空想のようで』

 

『あの頃きみと見た大冒険は

誰も触れない、誰にも説明のきかない

目の眩むような、春の夢だった』

 

 

……夢は、綺麗な夢のままで閉じ込めておこう。

 

私にとってLARMEは、生涯忘れられない春の夢だった。

ハガキが掴んだチケットとDVD〜他担から見た亀梨和也ソロコン映像化備忘録〜

ここに一枚のCDがある。

 

そのCDは赤と黒で構成された背景に、憂い顔の美男のモノクロ写真が中央部に配置されている。

 

これは、KAT-TUN亀梨和也のソロデビューシングル、『Rain』だ。2019年5月15日に発売された。

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Rain | J Storm OFFICIAL SITE

 

亀梨和也二階堂ふみと共にダブル主演を務めたドラマ『ストロベリーナイト・サーガ』の主題歌だ。このCDには主題歌の『Rain』と、日本テレビプロ野球中継のテーマソング『手をのばせ』、ほかカップリングが初回1.2.通常盤を合わせて4曲収録された。

 

さて、私が今回語りたいのはこのCDに関してではない。いやこの亀梨さんのCDに収録されている曲はどれも素晴らしくて大好きである。だが今回語りたいのは曲ではない。

 

曲についていた特典映像のことである。というかそれに関するハガキたちのことである。

 

私は山田涼介と目黒蓮のかけもち担であるため、亀梨担ではない。だが、それでもこの特典映像を手に入れるため、身近な亀梨担がどれほど頑張っていたか、そしてそれがどれほど参考になったか、尊敬の意を込めて今回このブログを書いている。

 

この『Rain』は、通常のジャニーズのCDに比べて、特に初回限定盤1の値段が少々張る。初回限定盤2も、1ほどではないが張る。限定盤1には表題曲『Rain』のMVとそのメイキング、限定盤2には『手をのばせ』のMVとメイキングが入っている。だが普通ならもっと安いであろう。普通ならば。

 

どこが普通ではないかというと、初回限定盤1にはKAT-TUNの充電期間中の2017年に開催されたKAT-TUN  KAZUYA KAMENASHI CONCERT TOUR 2017 The - 〜Follow Me〜』の2017年8月31日公演を全曲収録、初回限定盤2にはこのコンサートツアーのオーラスのメイキングとダイジェストが収録されているのだ。

 

言ってしまえばこの『Rain』の初回をそれぞれ買うだけで新曲4曲とソロコンサートの一公演まるまるとオーラス(ダイジェスト)がついてくるのである。

 

亀梨和也のファンは、このソロコンサートの映像化を願い、ひたすらジャニーズ事務所と版元であるジェイ・ストームに要望ハガキを送り続けていた。

 

仕事や家庭の都合上どうしても行けない。

行きたかったが、外れてしまった。

行ったけど手元に映像を残したい。

 

色々な亀梨和也のファンがそれぞれの思いを胸に、ハガキを書き続けた。その様子は、Twitterで#亀梨和也ソロコン映像化希望を検索すると山のように出てくる。2017年7月から、ソロデビューと映像化決定が発表された2019年3月24日まで、約1年半ひたすらハガキを送り続けたのだ。

 

私の身近な亀梨和也ファンもそうだった。その人はその頃足の調子が悪く、かつ、家庭の事情でこれまでコンサートに一度も行けないでいたのだ。それでもこのソロコンサートだけは行きたいと応募をしたが、外れてしまった。一般応募でかけ続けたチケットぴあが、かけすぎて「よく使う項目、勤務先」とiPhoneに間違って認識され登録されてしまうくらいには彼女はかけ続けた。外れてしまったが。

 

せめて、せめて映像に残って欲しいと彼女は思いを筆に乗せ、ハガキを送り続け、そのハガキたちをSNSに載せていた。手は仕事による腱鞘炎で痛めていたため、ワードを駆使してひたすら送り続けていた。

 

そんな彼女に、奇跡が起きる。いつものようにSNSにハガキを載せたら、あるDMが入ったのだ。

 

 

『要望ハガキ、とても感動しました。実は、亀梨くんのコンサート、同行する人が一人どうしても行けなくなってしまったんですけど……よかったら、同行してもらえませんか?』

 

 

そのありがたいDMに彼女は悩み続け、悩み続け、家族とも相談して……。彼女はとある公演に同行させてもらえることになった。

 

帰ってきた彼女は、膝から崩れ落ちて泣いていた。感動した。かっこよかった。絶対に映像化してほしい、と。そして、彼女はまた筆を取った。その頃にはもうたくさんの亀梨和也のファンがハガキをたくさんアップしていた。皆、思いは同じだった。ただ、自分の愛するアイドルの記録を残して欲しい。努力を、頑張りを、映像として残して欲しい。

 

その一心だった。

 

 

 

 

 

 

 

映像化決定の報せは、なかなか届かなかった。年が明けKAT-TUNの充電期間が終わり、亀梨和也主演ドラマ『FINAL CUT』の主題歌がKAT-TUNになり、シングルも発売、そして東京ドームでコンサートを行った。

 

 

ソロコンサート開催発表から一年経っても、映像化の知らせはなかった。KAT-TUNの全国ツアーが行われる中、彼女たちはKAT-TUNを応援しながら、ソロコンサート映像化希望のハガキを送り続けた。

 

 

それでも、報せは届かなかった。ソロコンオーラスから一年経っても、事務所からの知らせは来なかった。

 

気づけば2018年が終わろうとしていた。

 

熱心な亀梨和也ファンたちは、疲れ始めていた。DVD収録しているという情報があっただけに、望みを捨てきれなかった。

 

 

そして、報せのないまま2019年を迎えた。

 

 

 

 

ハガキを送り続けて1年5ヶ月。喜びの知らせなのだが、絶望にも似た知らせが彼女たちに届いた。

 

亀梨和也のソロコンサートよりも後に行われた、KAT-TUNのコンサートツアー『CAST』の映像化決定の知らせだった。

 

私はジャニオタでしか生きてないので他の界隈をあまり知らないが、ジャニーズのコンサートというのはデビュー組であっても全ての舞台、コンサートが映像化するわけではない。

 

今をときめくKing & Princeの冬の主演舞台、『JOHHNY'S IsLAND』もとい『JOHNNYS' WORLD』はHey! Say! JUMPが主演を務めた初演の2012年から一度も映像化されていないし、亀梨和也と同じKAT-TUNのメンバーである上田竜也のソロコンサートも二回行われているが、二回とも映像化されていない。

 

DVD収録があっても映像化されていない舞台・コンサートというのはたくさん存在する。おそらく会社の記録用として収録されるのだろう。

 

……頭では理解していても、それでも、それでも。

 

 

 

2017年当時、亀梨和也は多忙だった(今もだ)。他担の私から見ても多忙だった。充電期間の最中、主演の連続ドラマ『ボク、運命の人です。』の撮影と、山下智久と共に歌った主題歌『背中越しのチャンス』のプロモーション。

 

出演した映画『美しい星』のプロモーション。

 

24時間テレビのメインパーソナリティー。そして24時間テレビ内で放送される主演ドラマ『阿久悠物語』の撮影。

 

そしてレギュラー出演しているGoingの企画と、野球の取材。

 

その合間を縫ってのソロコンサートの準備。

 

 

 

 

芸能人にとっては当たり前のスケジュールかもしれない。何を今更、売れっ子ならそんなもんだろうと鼻で笑う人もいるだろう。でも、彼は当時『KAT-TUNを守るための充電期間中』だったのだ。必死で彼は、戦っていたのだ。KAT-TUNを守るために。

 

 

後に私は、当時ソロコンサートについていた宇宙Sixの目黒くんに沼落ちしたためそのライブレポート記事を買い漁ったが、艶やかで美しい写真の数々に目を見張った。

 

踊り、歌い、フライングをし……。

 

上記の仕事をこなしながらの準備とコンサートツアーは、さぞハードだっただろう。そのコンサートは7月から10月と、3ヶ月もの期間のコンサートだ。

 

 

ファンも、とにかく彼の戦いと努力の成果を映像に残して欲しかったのだ。自分達が見たかったから、それもあるだろう。だが、これは大きな仕事の記録なのだ。亀梨和也という、一人の男の成果なのだ。

 

『どんな形でも、受注生産でもいいから、映像として残して欲しい。』

 

身近な亀梨ファンはそう言いながら、日々ハガキを書いていた。

 

 

 

要望を送るのは、今はSNSもあるし、公式サイトにアクセスしてお問い合わせフォームに送るという手もある。

 

だが、ハガキというのは書いて、切手を貼って、郵送してもらうという手続きがある。切手代という料金も発生する。郵送してもらうのもたくさんの郵便局職員たちの手を経て、宛先の会社に届く。ハガキが届くまでにコストがかなり発生する。

 

そして、おそらくだが(特に出版社で)意見ハガキというのは会社内で有力視される傾向にある。私が好きな漫画、『月と指先の間』(作:稚野鳥子)にこんなシーンがある。少女漫画家の主人公が自分の漫画のレビューに落ち込んでいるところに、主人公の漫画が連載されている雑誌のアンケートを渡して編集長が語りかけるのだ。

 

『大人の女性の読者はほとんど感想を手紙に書いてきません』

『一通来れば後ろに百人以上は同意見の人がいると思っていいでしょう』

 

大人になればなるほど、素直な気持ちを文章に託すのはできなくなる。日常が忙しいのもあるが、子どもと違って作家に文章が変と思われないか、誤字はないかと気になるようになるからだ、と。

 

実際、件のハガキをきっかけにコンサートに同行させてもらえる奇跡を受けた彼女もよくよく文章を考えて構成して、ハガキを送っていた。文章を、相手に悪く思われないように考えて書くというのは労力がいる。頭も疲れるし手も疲れる。

 

 

そんな中、ファンたちは毎日毎日、ハガキを送り続けた。切手代が、おそらく一枚のコンサートDVDの値段になるくらいには。いや、仮に一週間に三枚送るを1年繰り返すとしても、8000円は超える。コンサート一回分の値段、あるいはそれ以上の値段を切手代、ハガキ代に費やしたファンもいるだろう。

 

 

もう、出ないのではないか……と落ち込む彼女に、「Hey! Say! JUMPは2年前のコンサートをまるまる映像特典でつけてくれたから出ると思うよ絶対」と励ましたことを昨日のように覚えている。

 

 

そして、3月24日の夕方。彼女から絶叫のようなLINEが届いた。

 

「亀梨くんソロデビュー。ソロコン、特典でまるまるつく!!!!」

 

 

 

他担だが、心の底から喜んだ知らせだった。もちろん映像化する企画は会社内で起こっていただろう。亀梨くん本人も、映像化のために動いていたのだろう。だが、ハガキが届いていたのは大きいと、私は信じている。ひたむきに彼女らは送り続けていた。毎日のようにハガキを送り続けていた。出ると信じて。発売されると信じて。一年半もの間、ただ書き続けたのだ。

 

その知らせから1ヶ月半後、めでたく2019年5月15日、『Rain』は発売された。ライブDVDではないので、セットリストから選んで映像を見るなどの、チャプター機能はついていない。だが、これをCDの特典として見ていいのかというほど素晴らしいLIVEの様子がそこに映っていた。

 

見ながら私も泣きそうになった。これは、亀梨和也さんと、ファンが勝ち取った映像なのだと。

 

テレビの中に映る亀梨さんは、とても美しかった。私はその時、亀梨さんを夢中で見ていた。

 

その一月後、後ろで踊る当時宇宙Sixにいた目黒蓮に突如沼落ちすることを知らずに亀梨和也を目で追っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、『Rain』発売から一年経ち世界は大きく変わった。コンサートや舞台が数多中止になり、発売を予定していたCDやDVD作品がいくつも無期限延期になる事態が起こっている。亀梨ファンの活動を参考にして「映像化してほしい」とハガキを送った『滝沢歌舞伎ZERO』も、発売決定後に新型コロナウイルスの影響で発売の延期が決まった。そして今もなお発売日が決まっていない。Hey! Say! JUMPは新曲の発売日が決まっているが、これも今後どうなるかわからないだろう。発売されると信じているが、毎日不安ではある。

 

コロナでいろんな界隈のファンが悲鳴をあげる知らせが毎日出る中、私の推しの目黒蓮くんは快進撃を続けている。この記事を書いている昨日も私は別の意味で悲鳴を上げることになった。彼が専属モデルを務める雑誌『FINEBOYS』の表紙を、2号連続で彼が務めることになったのだ。緊急事態宣言の影響で撮影ができず、先月の号のために撮影した写真の未公開カットで構成するという。

 

私は先月号の購入後、重版決定と表紙起用のお礼のハガキを送った。緊急事態宣言はいろんな会社の勤務形態を変えた。出版社も同様であろう。そんな中、問い合わせ対応、重版対応をしてくださった日之出出版さんにただ感謝を送りたかった。編集部ごとにハガキを振り分けるという手間を考えるとメールの方が良かったかもしれないが、ハガキで送った。私の一枚は、おそらくだが後ろに100人の意見があると信じて、ハガキを送った。

 

そして、今日もまたハガキのためにペンを取る。このコロナ禍の中、また目黒蓮くんを起用してくださったお礼のために。また今後も、載せてもらえるように。

 

ハガキで何が変わるかはわからない。でも、変わるかもしれない。それを教えてくれたのは、一年半送り続けた亀梨ファンたちだった。

 

その亀梨ファンたちもまた、コロナの影響で悲鳴を上げることになった。修二と彰から15年ということで発売されることになった亀と山Pのアルバムが発売の二週間前に延期になり、ドームコンサートは大阪、東京共に中止になった。発売も開催もコロナが落ち着かなければ、ほど遠い。

 

私の部屋には、未使用のハガキがたくさんある。コロナが落ち着いて、もしコンサートが開催されたらハガキを送るつもりだ。SnowManのデビューコンサートが開催され、亀と山Pのコンサートもまた開催が決まったらこの子たちを使うことを決めている。大きく、『映像化希望!』と書くつもりだ。ハガキの力を教えてくれた亀梨ファンのために、勝手ながらハガキという援護を送ろうと思っている。

 

そのためにも私はマスクをし、手を洗い、うがいをする。それしかできないのが歯痒いが。早く、早く元の日常が戻ってきますように。推したちが歌って踊れる日々が、戻ってきますように。

 

蹴鞠、猫、女三宮。

この三つのワードでピンと来た方。握手したいです。これは、私が目黒蓮くんに演じてほしい役柄のキーワードです。いやずっと思ってるんですけどね、目黒くんに私、源氏物語の柏木を演じてほしくてたまらないんですよ。

 

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『あさきゆめみし完全版(7)』(大和 和紀)|講談社コミックプラス

 

 ていうかめっちゃ目黒くんについて語りたいし、目黒蓮の柏木をどんな風に見たいか語りたいのでめっちゃ長くなります。あとどういう経緯で目黒くんにハマったかも書きます。長いです。目黒くんのブログ並みに長いので、柏木のワードが見えるあたりまでスクロールしてくださっても大丈夫です。ほんと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 2019年6月半ば、突然、目黒蓮沼に落ちました。いやもうとんでもない落ちっぷりでした。自分でもどうしたと思うくらいの急転直下でした。落ちたことを周りに伝えたら

「熱測る?」(母より)

「何があったの!?」(友達より)

「どうした!?」(当時のパートナーより)

「なぜまたそこに!?とりあえずこれとこれに写ってるよ!!!(逆転ラバーズ初回2種類を取り出す)(仕事が早い)」(Jr.オタの先輩より)

こんな反応をいただきました。ジャニオタ先輩の仕事が早くて面白かったしありがたかった。いやこの反応は正しいと思います。なんだかんだで私はずっと10年以上山田担でしたから……。いやたまに高地くん可愛いとかケンティーやべぇとか言ってましたが基本的にずっっと山田担でした。

 

 目黒蓮くん。存在だけは、熱烈で狂信的な亀梨和也担の母から聞いていました。ていうかこの母から聞いてなかったら私はたぶん彼を、SnowMan加入まで知りませんでした。

 

 彼を知ったのは、宇宙Sixが亀梨くんのソロコン「follow me」にバックとして同行した時。我が母はまあそれはそれは情報を収集していました。そして、目黒蓮くんという男の子がとにかく亀梨くんに懐いているらしい」とめっちゃ語ってくるようになりました。

 

そして、1番の契機だったのは、2017.8.30。東京国際フォーラム公演でそれは起こりました。察しの良い人はわかるかも知れませんが、とある事件が起こりました。

 

めめかめお姫様抱っこ事件です。

 

この公演に母は入っていたのですが……まあ帰ってきた時の興奮が凄まじかったです。私は母の話と当時のレポからしか知ることができませんが、まとめるとこんな感じです。

 

MCで目黒くんが、亀梨くんをお姫様抱っこする夢を見たから、お姫様抱っこしたい欲が強いと伝えた。そして会場が盛り上がったため、亀梨くん、目黒くんにお姫様抱っこされる。会場、大盛り上がり。

 

 のちにJUMPオタの私のところにもイケナイお写真が回ってきました。なんというか、

 

え、めっちゃ可愛い男の子にめっちゃセクシーな雰囲気で亀梨くんがお姫様抱っこされてる……

てかもう今にもキスしそうなんですけど!!?何この子!!!?

 

……という形で私は目黒蓮くんを知りました。覚えました。

 

が、当時はそれだけでした。

 

 その翌年、KAT-TUNが充電期間を解除、復活をして行った夏のツアー「CAST」に原くんを除く宇宙Sixが同行。原くんの欠席理由が劇団☆新感線の舞台に出るため」っていうとんでもない名誉な理由での欠席だったのが、とても印象的でした。そこでもどうやら目黒くんが可愛かったらしいのですが、私は母から聞かされた、原くんの欠席理由の方が衝撃的でそっちばかり印象に残ってました。(ごめん目黒くん)

 

 原くん、亀梨くんのソロコンの時はめっちゃいじられてる子がいたとしか聞いてなかったけど、そんなすごい子なのか……と、それがきっかけで宇宙Sixを調べたのでした。

 

 そして、もともと宇宙SixThey武道というグループだったのを、三人追加して生まれたグループだと知りました。その追加メンが、当時無所属だった目黒くん、原くん、そしてMAだった松本くん。その6人で宇宙Sixを結成……が、元々They武道だった林くんが脱退。そしてその時は5人で活躍していました。原くんすげぇなあ、目黒くんも可愛がられてるんだなぁ……で終わりました。

 

……その時は。

 

そして、その数ヶ月後、衝撃のニュースと共に目黒蓮くんの名前を毎日のように見かける日々が訪れることになります。JUMP担でありながらNYCboysつながりでSixTONESも結構応援していた当時の私、いや、若手ジャニーズファンの間に相当な衝撃が走りました。

 

Snow Manの、増員です。

 

……え?と目を疑いました。

 

 Snow ManSixTONESと一緒に舞台をやったり、映画に出たり、というかバカレアの映画も出てたしでメンバーの名前と顔は一致したし、ちょこちょこと動画は見てました。(ちなみに阿部亮平くんが6人の中で好きです)そんで滝沢歌舞伎を引き継ぐことになったのがSnow Manと聞いて「さすがだなー」と思ってたら……。

 

メンバーにも衝撃でした。

 

こーじくんがいる……向井康二……まじで……?え、るたこじ……。

てかラウールって誰……?

 

……まって、目黒くんがいる!!!!!????

 

 

他グループの担当である私にも相当な衝撃でしたから、スノ担さん、宇宙担さん、関西担さん、少年忍者担さんの衝撃、ショックは筆舌しがたかったことでしょう。

 

私もなんかすごいショックを受けてました。

 

 

 

それでSnow Manが前より気になるようになり、動画を見る機会が増えました。

 

そして自然と目黒くんを目で追います。細い、大きい、顔かわいいなー。てか声低いなーーーとか思いながら見ていました。ていうかSnow Manみんなおっきいなぁ。大人っぽいなあ。可愛いんだなぁ結構。童顔がいないなぁ……と思いながら見るようになりました。

 

……その時は、みんな幸せになればいいなぁと思っていました。外野だったから。うん。どちらかといえばSixTONES寄りだったし当時は。

 

 

 

 

それが急に目黒蓮に落ちました。

 

 

 

 

どうやら写真フォルダやTwitterを遡ると、6月10日に落ちたみたいです。その前、ひたすらセミオトコの話とアリーナツアー中止の件しか呟いてないので。

 

……ロックアイスCM放送日の翌日やんけなんでせめてその二日前にハマらんかったの私!!!!!

 

落ちたきっかけはですね、

めめなべらじらーの音声が流れてきたからなんです。あとそのレポ漫画。

 

え、目黒くんこんなキャラなんだ〜、ラジオ聞いてみよ……めっちゃ声いいな???

 となって色々しらべてたら、生配信のPPPやたまアリ紹介ラップなどの様子が流れてきまして……(違反のものだとは分かってます)。

 

見ながら、フーッとため息をついて、ゲンドウポーズをしました。そして、感じました。

 

 

 

 

沼から手招きされている。というかもうこれ沼に入ってる。だめだ目黒蓮が見たくて仕方ない。

 

 

 

 

その夜のこと。宇宙Sixが同行したfollow meの映像が入った、亀梨くんのソロシングルを持ってる母に「見せてください」「ていうか一枚譲ってください」と頼みました。

 

母「何があったの」

私「目黒くんにはまりました」

母「熱測る!!!???」

 

いやこんな反応になるよねそりゃ。中1から山田涼介で生きてきた娘だもんね……。それで母と共に亀梨くんソロコンの鑑賞会がスタート。そしてKAT-TUNのツアーのCASTも見せていただきました。

 

……ハタチの目黒蓮可愛い!弟な目黒くん可愛い!!

CASTの軍服目黒くんあかん!腰!!腰振ったあかん!!!可愛い!!!でも色っぽい!!!!!あかん!!!!!あかん!!!!!!(クソデカ感情)

 

……見ながら感じていたのは、だめだ……私きっともう目黒蓮沼から抜け出せない……これ山田と目黒の掛け持ちになるやつ……と。

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数ヶ月。あれから大きくジャニーズ界は変わりました。

 

偉大なるプロデューサー、ジャニーさんの逝去。 

8.8東京ドーム公演でのスノスト同時デビュー発表。

関ジャニ∞錦戸くんの脱退。

嵐・YouTubeに。そして二宮くんの結婚。

 

……いろいろ、ありました。ハマって2ヶ月しないうちに目黒くんのデビューが決定し、あれよあれよという間に情報の波と露出の波が一気に押し寄せ、なんとか食らいついていきました。そして、過去の目黒くんを見たくて色んなものを買い漁りました。

 

 

……そして、ある役を演じてほしくてたまらなくなりました。冒頭にもあります、日本の古典である

源氏物語」の柏木です。

 

ようやく、ようやく冒頭にたどり着きました。ごめんなさい長々と。

 

解説しなくてもご存知の方は多いと思いますが、源氏物語とは、平安時代紫式部によって生み出された長編で、光源氏の様々な恋愛模様ならびに貴族社会の権力闘争や栄光と没落など描いた物語です。私は大和和紀さんの『あさきゆめみし』で知りました。

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『あさきゆめみし 完全版(1)』(大和 和紀)|講談社コミックプラス

 

目黒蓮でいろいろ検索してたらですね、結構『目黒くんは令和の光源氏っていうツイートを見かけるんですよ。なるほどたしかに、あの女を落とす感じ、光源氏みはある。てか光源氏まじでいろんな女に手を出してるしな。下世話な言い方ですが、○○兄弟の逆に光源氏つながりの姉妹とか結構いるじゃんってことでの本とか出版されてますからね……。

 

でも私はそこで、光源氏ではなく、

柏木を推す!!

 

柏木というのはですね、光源氏の息子である夕霧の親友なのですよ。夕霧と同じく、将来有望な若者として源氏物語に登場します。

光源氏の親友であり義理の兄である頭中将の息子。だから夕霧とはいとこ同士。そんでもって、夕霧と両思いの妹・雲居の雁とのあれこれを手助けしたりもする。

 

蹴鞠、笛など当時の貴族の男性が求められたことが得意な本当に才能あふれる青年なのです。

 

……が、彼は源氏物語の第二部で、自身も光源氏の運命を大きく歪ませる出会いをします。

 

それが、女三の宮との出会いです。

 

女三の宮は、前帝である朱雀院の三番目の娘。早くに母を亡くしたため、溺愛されて育ったためか非常におっとりして幼い性格の美少女。朱雀院は後見人もいないこの姫君の行く末を案じ、光源氏の下に降嫁させることにします。

 

実はこの女三の宮を、柏木はかねてから朱雀院に、自分の嫁に欲しいとお願いしていました。しかし朱雀院は柏木は将来有望な若者ですが、まだ若い&大事な娘を任せるには身分が低い……ということで源氏に嫁として迎えてくれないかと相談。源氏は女三の宮の降嫁を最初断ろうとするんですが……女三の宮が初恋の人である藤壺の宮の遠縁に当たることを思い出す。それで、降嫁を受け入れてしまう。

 

……目黒くんにハマってから買ったものの中に、滝沢歌舞伎2018のDVDと、そのレポが載った雑誌(ダンススクエアなどetc……)があります。冒頭に貼ってある写真はその滝沢歌舞伎2018の目黒くんの一つです。黄緑の直衣で踊る姿が実に優雅で、生で見たかった……と思いながら円盤を見ていたのですが、私は途端に「桜の下で蹴鞠する目黒くんが見たい」という思考に陥りました。

 

これは個人的な選抜なのですが、阿部亮平くん佐久間大介くん宮舘涼太くん渡辺翔太くん目黒くん向井康二くんに直衣姿で蹴鞠してほしいんですよ。

 

桜がひらひらと散る中、それぞれが香を焚き染めていい香りさせながら、ポンポンと蹴鞠をする。たまに阿部ちゃんかさっくんがとんでもないところに飛ばして、ゆり組や康二くんがつっこんで、少し遅れて目黒くんがケラケラ笑う。

 

それを館から眺める、これまた直衣姿の岩本照くん深澤辰哉くん、そしてラウールくん

 

いわふかに「ラウールもやる?」ってラウールくんに聞いてほしい。そして、「んー。今はいいや。猫と遊んでたい」ってラウールはそのまま御簾からちょこちょこ出てくる猫と戯れててほしい。猫と戯れるラウールを見て、いわふかはニコニコしててほしい。で、たまに鞠が飛んできて投げ返すか、蹴鞠に参戦してくる。

 

……話はそれましたが、柏木の話に戻ります。

 

 柏木はその後、女三の宮への想いを胸に日々を過ごしていたけど、ある日源氏の家で行われた蹴鞠の催しで、部屋から飛び出してきた猫の仕業で舞い上がった御簾から女三の宮の姿を垣間見てしまうんです。

 

この時、柏木の目黒くんにですね、少し頬を染めて御簾から見える女三の宮を熱っぽく見つめて欲しいのですよ!!!

 

「あれが、あれが女三の宮様……?なんて、なんて可愛らしいんだ……」と。あの低くてめっちゃいい感じに甘い声でモノローグ入ってほしい。

 

お人形のようにボーッと立つ可愛らしくて美しい女三の宮の姿を、少しでも目に焼き付けたくてグッと拳を握りしめて、熱っぽく見つめててほしい。 

 

あの優しそうなちょっと垂れた目を大きく開いて、ぽてっとした唇を少し開いて、あぁ……と息を漏らして見つめてるんですよ。たぶんそこらの女房が見たらクラクラ倒れてしまいそうな表情をして、女三の宮を熱っぽく見つめるんです。

 

女三の宮はそれに気づかず飛び出した猫を回収するために、猫の首に結えられた紐とかたぶん引っ張ってんだろけど。

 

で、ここらへんでたぶん阿部ちゃんとかめっちゃ目黒くんが女三の宮を見つめてるのに気づいて、「おい女三の宮様めっちゃ見えてるぞ早く周りの女房たち気づけ!!」ってゴホンゴホンと咳払いしてる。で、御簾がしまって女三の宮の姿は見えなくなってしまう。目黒くん、露骨にしょげる。でも結局部屋に入らなかった猫とかがうろちょろしてて、柏木な目黒くんは猫を抱え上げてすりすりする。

 

可愛い猫を愛おしそうにすりすりする目黒くん、めっちゃ見たくないですか?

 

柏木はその時見てしまった女三の宮の姿を忘れられなくてですね、なんとその時の猫を引き取って女三の宮の代わりに可愛がってしまうくらいには女三の宮を熱望するんですよ……!

 

あさきゆめみし』のその猫のあたりの試し読みがあるんですけど……

『あさきゆめみし完全版(7)』(大和 和紀)|講談社コミックプラス

 

上にもちょっと書いてる、可愛い子猫を溺愛する柏木な目黒くん再びです。ほぼ肌着姿で寝転がりながら、めっちゃ猫を愛でるんですよ。絶対可愛いじゃないですか!!和装で、髷で猫を愛でる目黒くん……。色気と可愛さが溢れて大変たまらないことになりそうな……。

ふわふわのかわいい子猫の頭やお腹、しっぽをすりすり撫でる目黒くん。

 

「お前は俺のものだよ」

「あぁ、なんて可愛らしいんだ……」

 

全視聴者が、「あの猫になりたい!」「猫そこを代われ!!」ってなるやつですね。

ゴロゴロしながら猫を愛でる目黒くん、癒され度MAXでしかない。いろいろ考えるとこれめっちゃ怖いんですけどね。女三の宮が触った猫を女三の宮代わりにして、めっちゃ愛でてる柏木……って場面ですから。きっとその怖さを中和するのが可愛らしく猫を撫でる目黒くんなんですけど。

 

いや私が見たいだけなんですけどね。和服で猫を愛でる目黒くんを。

 

それでですね、その後光源氏の最愛の妻、紫の上が病気になりまして、光源氏は女三の宮そっちのけにして紫の上の看病に行くんですよ。で、女三の宮がいる部屋の方はすっかり静かに。

 

柏木はこれはチャンス、とかねてから手引きしていた女三の宮の女房を介して、女三の宮の寝所に忍び込むんですよ。

 

驚く女三の宮を抱きしめる柏木。

 

「ずっとお慕いしておりました……」

「なんと細く可愛らしいことか……」

 

障子の隙間から入る月明かりに照らされる、柏木な目黒くんを見たい。ちょっと性急にきたから、綺麗に固めてるはずの髪が少し崩れてほつれてたら、さらに可愛らしいと思う。また、髪で陰ができてたら尚更いい……。

絶妙な色気が出ると思うんですよ!あとあの低い声で、戸惑う女三の宮を落ち着けるようにして募る想いを打ち明けてほしい……。きっと、普通の女性ならそこで受け入れてしまうんですよ。女三の宮は頑張って拒絶しようとするんですけどね。でも、男の人の力には敵わない……。

 

で、物語の展開としては、ここで柏木は女三の宮と密通してしまう。で、密通を繰り返すうちに女三の宮は妊娠。しかもそれが光源氏に知られてしまう。女三の宮、まじで幼いから柏木からの手紙とかめっちゃ迂闊なところに置いてて光源氏に見つかって持ってかれてしまうんですよあーあ……。

 

で、源氏にバレた柏木は、源氏の家で催された宴で皮肉を言われてしまう。で、病にかかって床に臥すようになってしまった。

 

……病で痩せ細る柏木な目黒くん、痩せてても美しい気がする。いや完全に私が目黒くんに想像を押し付けてるだけなんですけど、それでもなんとも言えない色気が溢れてそう。この源氏物語がドラマなら、視聴者から「目黒くんが演じる柏木、病でも美しすぎる」とか「なんなんあの色気、病気なのに色っぽい」とか言われててほしい。布団からちょこんと顔が出てるだけなのに、どことなく色気のある目黒くん。とんでもなく痩せてしまってるのにめっちゃ色っぽいな目黒蓮、さすがだ目黒蓮、色気で生き急いでやがるとか言われててほしい(ひどい)。

 

で、最終的に柏木は、女三の宮が男の子を出産した後、死んでしまうんですよ。お見舞いに来た夕霧に、それとなく真実を話して……自分の正妻の落葉の宮のことを託して。

 

そう、実は柏木、正妻いるんです。女三の宮を妻に迎えられなかった柏木を不憫に思った父親が朱雀院にお願いして、女二の宮(落葉の宮)を嫁に迎えたんです。が、落ち葉のようにつまんない人と評したことから読者に「落葉の宮」と呼ばれてしまうんですよこの正妻。柏木に話しかける正妻の落葉の宮に、優しくするフリをしてため息をつく柏木な目黒くんも見たいですねほんと。そもそも宮さまを嫁にもらうなんてかなり名誉なことなんですけどね……。柏木、正妻がいるのにその女三の宮に懸想してばっかなんですよね。改めて結構ひどい男だな柏木。

 

正妻がいながら、人妻と道ならぬ恋に陥る若者の柏木……。

 

それを目黒蓮が演じたら、ドロドロだけどとても美しいと思うんですよ。単衣姿で、憂いを帯びた横顔で脇息にもたれつつ女三の宮のことを考える目黒くんとか……。

 

月明かりに照らされる、烏帽子姿の目黒くん……。

蹴鞠に興じる目黒くん。

流鏑馬をする目黒くんに、

青海波を舞う目黒くん。

和琴を演奏する目黒くんに、杯から酒を飲む目黒くん……。

美しい、単衣姿の女性を抱きしめる目黒くん……。

 

いや絶対似合いません??てか柏木な目黒くんも見たいけど、

 

和装でドラマや映画に出る目黒くんが見たい(究極はここ)。

 

どうかお偉い様みなさま、目黒くんに和装のドラマや映画お願いします……。