七竈の食器棚

徒然なるものを竃につめこんで。

爪先に、ゆるんだ髪がひっかかる(訳:爪噛み治りました記録)

 おう?私の爪そこまで伸びたか、と思いながら利き手の指先を見る。爪と指の肉の間に、私の髪が一本挟まっていた。つい3年前には起きなかった現象だ。挟まった髪を外しながら、爪切りに手を伸ばす。爪がこんなに早く伸びるなんて知らなかった。自分の記憶の中にあるのは丸くて小さくて、白いところなどほとんどない爪だ。爪を切った記憶はほとんどない。

 

 

f:id:strawberrytart0509:20230127203158j:image

ずっと爪を噛んでいたから。

 

 いつから爪を噛み始めたかなんて記憶にない。物心ついた時には既に深爪だった。母曰く、三つ下の妹が生まれてから私は爪を噛むようになったらしい。親の愛情が半分になったストレスからかと気にした母は何度もやめさせようとしたらしいが、治ることはなかった。どれだけ叱られてもたしなめられても、私は気づいたら爪を噛んでいた。母のことは怖かったしできるだけ母のいうことを聞いていたが、それでもこれだけは止められなかった。私の爪は人よりも四分の一ほど短いのが常だった。人と違うでこぼこの爪を本来は恥ずかしがるべきだったのかもしれない。

 

 

 大学生になってから他の子と比べてあまりにも爪の形が不細工すぎて、さすがに治したいと思い頑張ったこともあったが我慢できて2ヶ月だった。伸びた爪を見ると噛みちぎりたくなった。ネイルオイルを塗っても、透明ネイルを塗ってもダメだった。禿げてきたところから噛んでしまう。爪を噛まないことでイライラした。

 

 そもそも私は何かを噛むことが好きなのだ。カリカリに焼いたパンの耳を食べることも好きだし、ケーキなら苺タルトが大好きだ。苺やクリームなどをタルト生地と一緒に食べつつ、最後に残った大きめのタルト生地を食べるのが一番楽しみである。飴をガリガリと噛むことも、氷を噛み砕くことも大好きだ。なんでか知らないが、昔から好きだった。

 

 噛み砕くの楽しい。音が好きなのか、噛み砕く感覚が好きなのか。硬そうだと思って買ったタルトが思ったより柔らかいと、裏切られたような気分になる。フロランタンではその失敗はない。ラスクでもその心配はない。食パンを焼いてカリカリになってないと朝から不機嫌になってしまう。焦げすぎになる方が個人的にはいいくらいにはカリカリの食感が好きである。

 

  そんな感じで常に噛まれていた私の爪は、白いところは柔らかかった。伸びたそばから噛まれるので、今思えばめちゃくちゃ自分の爪を痛めていたなと思う。

 

  その非常に短かった白い爪の部分が伸び、私の指先はちゃんと人の爪の形になった。先日は職場のリーダーに「七竈さんの指って長くて綺麗よね」と言われた。そんなこと、初めて言われた。そして入った当初は絶対言われなかった。ほぼ着せ替え人形で髪型も決められていた私だが、唯一母の思い通りにならなかったのが指先であった。こんな爪先でいい子じゃないのに!なんでこんなに指先が汚いの!と母に嘆かれていたのに、人は変わるものなのだなあと自分の指先を見ながら思う。

 

 

 

 

 

 きっかけは、コロナ禍に突入した2020年のことだった。コロナ禍になったところで一緒に仕事をするようになったドクターが、少しでも自分の担当患者をコロナだけではなく普通の肺炎からも守るべく、肺炎球菌ワクチンをしきりに勧めるようになった。「コロナも怖いですけど、普通の肺炎でもあなたの場合は病状的に死に直結するんですよ」と言いながらその日に肺炎球菌ワクチンを打たせたり、予約させるようになった。

 

 診察がスピードがめちゃくちゃ早いその外来で、1日に10人ほど予防注射の患者がいるのが常になった結果、私は爪を伸ばす必要に迫られたのだ。

 

 体温計を渡し、問診票を受け取りチェックをし、該当患者の採血結果の前にその問診票を置き、注射薬と消毒セットと注射針を捨てる箱を用意。患者の診察と注射が終わったら素早く問診票をめくって、ロットシールを該当箇所に貼る。

 

 このロットシールが非常にくせものなのだ。縦幅5ミリ、横幅10.5ミリくらいのシール数枚を箱から剥がして、一枚ずつ該当箇所に貼らねばならない。それを1日に何度も繰り返す。深爪の私の指ではとにかくそのシールは剥がれてくれなかった。そしてシールを剥がすのに四苦八苦してる間に次の患者の呼び入れが始まる。そしてドクターは次の患者がいないとイライラする。貧乏ゆすりが始まる。声がトゲトゲしくなる。

 

 爪、ないとやばい。爪を噛めないしんどさよりも、この外来を乗り切れないしんどさの方が恐ろしかった。このドクターは若い研修医たちからも怯えられているし、先輩方もできれば診察につくことを避けたいことで評判の方だった。いやめちゃくちゃ仕事できるし頼りになるのだが。いっしょに仕事をするようになって3年経つが、今でも1日の外来が終わったらしばらく10分ほどぼーっと座ってることしかできない。

 

 コロナ禍初年度で、いろんなことで皆イライラしていた。私もイライラしていた。そしてそれは爪を噛み切ることで解消されるイライラじゃなかった。噛んだところでどうしようもなかったし、いいのか悪いのか爪を噛む暇は家に帰ってもなかった。この頃の私は土曜は泥のように眠り、日曜は起きてひたすら雑誌へのお礼のハガキを書いていた。とにかく何かに没頭していた。

 

 噛まれなくなった私の爪は自然と硬くなっていった。そして、これは好都合ではないかと伸びてきた爪を噛むのではなく削るようになった。深爪にならないように、剥がしやすい長さになるように爪の形を考えながら爪を削った。

 

 

 

 その年の初冬、肺炎球菌ワクチンだけじゃなく、インフルエンザワクチンも加わり私のロットシール地獄はえげつないことになった。とにかく爪の長さが要る。不恰好ながらも伸びてきた爪は、いとも簡単にロットシールを剥がしてくれた。

 

 爪、あると便利だ。と今更ながら気づいた私は爪を噛まなくなった。無性に噛みたくなる時が来たら氷を噛んで我慢した。

 

 あの衝動は何だったのだろうと思いながら爪を切る。思ったよりも人の爪の伸びるスピードが早くてびっくりする。しょっちゅう噛んでたから知らなかった。こんなに人って早く爪が伸びるのか…。

 

そしてその結果、爪と指の中の間に髪の毛が引っかかりやすくなった。人よりも短いためで生きることが長かった私は、爪と肉の接着部がおそらく人よりも短い。故に、物が入りやすいのだ。爪を綺麗に伸ばすのに保湿が必要とネットで見たので、例年以上にハンドクリームをしっかり塗るようになった。ただでさえアルコール消毒といくつもの紙を捲らねばならず乾燥しがちだった指だ。少しでも潤いは欲しかった。

 

 そして少しずつ、少しずつだが爪と指の間の接着部も伸びてきた。今でも深爪の名残はあるけれど、だいぶ落ち着いた。髪が爪と指の間にひっかかることもかなり減った。引っかかると鬱陶しいものの、どこか嬉しくなる。

 

 綺麗にオーバル型になった爪。もう一生治ることはないだろうと思っていた深爪だが、まさかコロナから始まったあれこれがきっかけで治ると思わなかった。さすがに3年の月日は必要だったけれど。おそらく、大人になって精神的に落ち着いてきたのかもあるのかもしれない。爪噛みの原因を調べると、真っ先に出てくるのは『ストレス』だ。様々なストレスはあるだろうが、子ども時代のストレスが減ってきて向き合えることが増えてきたからかもしれない。でも、私の中で爪が人並みの長さになったことは大きな進歩だった。

 

 綺麗なジェルネイルが似合うような爪になることはこの職場にいる限りはないだろう。ただ、今後私は人並みになった爪で生きていけると確信している。